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読書日記1156

         梅棹忠夫『文明の生態史観 改版』中公文庫 (1998)

■株式会社中央公論新社

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その他数冊

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日記

文明に関する本は教科書的で読んでいてつまらないことが多い。この本もその例外ではないかもしれないが、著者が実際に足を運んだ経験をもとに実態体験ベースで書かれているのでそこまで読みづらくもない。

本書を読むことで、歴史や文化にたいして自分とは違う考えを取り入れることができるのが良いところである。

自分は今日まで、洪水のようにあふれる横文字(エンパワーメント、アウトリーチ、レジリエンス、ネガティブ・ケイパビリティなど)を危惧していたが、梅棹氏の本を読んでから多少、カタカナは日本語の文法法則を崩さずに英語を互換的に利用できるという意味で強い言語だと思うようになった。

というのも、日本はあらゆる文化(クリスマスやハロウィーンなど)を寛容的に取り入れる柔軟性があるが、この柔軟性ゆえに日本だけが西欧列強時代に立ち向かえたという可能性があるという話を聞いていて、なかなか納得できるものがあったからである。

もちろん例外も多数ある。

インドは12マイル離れれば言語が変わると言われていた(当時)ほど多様性のある社会でありながらも近代化に遅れた歴史がある。

そこには無数の原因があるが、本書によればカースト制度や人口の多さなどが課題となっているようである。

読んでいて自身の歴史観を更新できるという意味でなかなか意義あるものだと感じた。

ゆくゆくはトインビーの本も読んでいきたい。

・・・

「文化と教育のパラドックス」は読んでいて非常に面白かった。

教育哲学ともつながるトピックであり(自律概念をめぐる議論など)、教育をめぐる矛盾に関しては自分でも自分なりに考えた。

文化のパラドックスは「反体制の商品化」にあると書かれていた。

カウンター・カルチャー(ヒッピー、ロック、サイケデリック)などは時を経て「ファッション=商品」になってしまう。最終的には資本主義への抵抗は資本主義のメカニズムに飲み込まれるという矛盾から逃れられないのである。宮台氏も書いていたが、現代芸術はモダニズムの繰り返しに過ぎないという袋小路を迎えている。それは芸術哲学者アーサー・ダントー氏も書いていたことである。

ベンヤミンは複製技術時代を迎え、芸術作品に存在するアウラ(経験に潜む一回性のようなもの)が失われることによって発生する文化的現状についていろいろと考察を進めた人物であった。

本書では、複製時代においては「市場では悪貨が良貨を駆逐する」原理が働き、芸術作品は大衆迎合的なものでなければ売れなくなってしまう状況が生まれたと書かれている。

また、複製という技術が貨幣自体を増殖することをも可能にし、あらゆる文化財の価値が揺らぐ状況を招くという、技術によって技術自身の自己破壊的な状況(技術によって可能になった利便性は技術自身によって危機にさらされる状況)を生んでしまったとされる。

ここからは自分の解釈と偏見が混じるが、学校もまた社会に順応するための、大衆コピー機のようなものである。ここから教育のパラドックスと話がつながる。

イリイチは学校について「人間は学校に行けば行くほどバカになる」と言葉を残した。

なぜなら、基本的に授業は受け身であり、教科書に書いてあることはほぼ全て正しいとされ、それを疑うことを許されないからである。

ソクラテスは「教えるに値する知とはなにか」を問い、そして「それはいかにして教えられるか」と考えたが結局は思考を促すことが限界であり、自らの探求によって真理にたどり着くしかないと結論付けている。この「自ら」がポイントであり、考えることを教える難しさが教育の課題ともいえる。教育の場において教条主義はあってはならないからである。

ということで、今日もなかなかに面白い午前の読書時間であった。

公開日2023/10/1

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