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日記
ながらくハーバーマスから遠ざかっていた自分は、何が起きたのか、急に読みたくなりカフェでじっくり読むことにした。
通勤時間はミル『自由論』を読みつつ、『討議倫理』で集中力が切れてからはゆっくりと『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』を読むことにした。
討議倫理という言葉は別の本でなんとなく聞いたことはあるが、あまり知らない概念であった。
漠然としたイメージとしては、理想的なコミュニケーションというものに関する理論、という印象を持っていた。コミュニケーションの理論的な話にはあまり興味がなかったせいか、しばらく遠ざかっていたのであるが、それはただの勘違いで、読んでみればカントの義務論と話が密接につながっていることを知った。
ピーター・シンガーの功利主義とカントの義務論を地道に読み進めていた自分は当然、この討議倫理という概念に自然と関心を持つようになったのであった。
まずは『討議倫理』の感想から書いていきたい。
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カントの義務論をおさらいした。
「汝の意志の格率が同時に普遍的法則となるような格率に従って行動せよ」、つまりいつの時代にも通用するような、道徳原理に従って行動せよ、というものであった。
なぜカントなのか、と最初は疑問に思っていたが、すぐに理解した。
人は各々、されたいこと、されたくないことがある。
一般論でいうならば、相手の為になるような仕事をしたいだろうし、そういう仕事をしてもらいたいという期待を私たちは持っている。
しかし、多様性ある世の中は常に例外がつきものだ。
例外をも包摂するような原理が求められる。それはいかにして求められるか。それは議論によってのみ可能と考えるわけである。
“ーーー実践的討論への参加者としてのすべての当事者の同意をとりつけることができるような規範のみが、妥当性を要求できるということ。” P7
15ページほどじっくり読んだ後に急に集中力が落ちてしまったので、明日以降つづきを読んでいきたい。
メモ
“義務倫理は正義原則に限定され、義務倫理は一般的幸福に限定されてきている。” P12
・・・
『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』
『みんな政治でバカになる』という本は共感が認知バイアスにつながることでいろいろと面倒なことが起こるということが一例として挙がっていたのを覚えている。それに対してこちらのジョナサン・ハイトの本はヒューム「理性は情念の召使であるべき」を支持するものとなっている。
200ページほど読んだ。中盤は文化によって個人を尊重する社会があったり(西洋)、集団を尊重する社会があったり(インドなど)、道徳の性質が文化圏によってばらつきがあることを示唆する内容となっていた。
今日読んだところでは、ベンサムとカントへの批判がなされていた。この二人は著者によれば共感能力に欠けるのだという。文献的にもある程度正しいとのことであった。カントは時に社交の世界に顔を出していたが、基本的には散歩ばかりしていた。ベンサムにかぎっては、人間に対する興味がないと思われるくらい冷徹だったという。そのような人間から生まれたシステム的な道徳観に待ったをかける。ヒュームはバランスが取れていて、政治において共感能力が全体の調和に必要不可欠だとみていたのか、そのあたりはまだ定かではないが、本書の流れからするとそのように考えていたのかもしれない。そのあたりは明日以降確認していきたい。
そのあたり、シラーのような文学上の偉人たちが美によって調和をもたらすことに注いだ物語を思い出させる。しかし美学は政治に悪用された過去を持っている。その点はヒュームへのアンチ・テーゼとなるだろう。この点も併せて考えていきたいところであった。
メモ
消費主義(コンシューマリズム)・・・「人間の義務は自らの欲望を満たすことである」
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『自由論』
示唆的な内容が多い。そして考えさせられる。人はどこまで自分の考えに自信を持つべきなのだろうか。これはなかなか難しい。自信を持ちすぎるとバイアスを生みかねないし、なさすぎると自分の行動に疑問を抱く日々を送るかもしれない。
“人間が判断力を備えていることの真価は、判断を間違えたとき改めることができるという一点にあるのだから、その判断が信頼できるのは、間違いを改める手段をつねに自ら保持している場合のみである。” P53
うまくいっている時も、そうでない時も、時には内省することが肝要ということなのだろうか。
“真理に備わる本当の強みは、つぎの点にある。すなわち、ある意見が真理であるならば、それは一度、二度、あるいは何度も消滅させられるかもしれないが、いくつかの時代を経るうちに、それを再発見してくれる人間がたいてい現れる。再発見された真理のいくつかは、幸運な事情に恵まれていて、迫害をまぬがれ、大きな勢力となる。” P73
つまり、文学を読むこと。古典を読むことにつきる。なるほどと思うと同時に、なぜそれを忘れてしまっていたのかと、自分に対して若干の不安を覚えてしまった。
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『討議倫理』
メモ
ヘーゲルによる「カント義務論」の四つの批判
・カントの道徳原理の適用は同語反復的判断に行きつかざるを得ない
・カントの定言命法は普遍を特殊から分離することを要求するため判断が大雑把なものになり個々の事例にたいして外面的なものになる
・端的に、行為が無力である
・定言命法が人間の人格形成や歴史などを切り離すものであるため、より高次の目的のために非道徳的な行為に向かわせる危険性をもつ