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その他数冊
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日記
『国家 上』を精読。
トラシュマコスとソクラテスのやりとりを何回も読み直した。
本書に書かれている「徳」とは「優秀であること」と等価であることを理解した。
徳を積むという言葉があるが、プラトンのいう徳は違う。おそらく東洋思想と西洋思想の違いに起因する。
プラトンの本における「徳」とは能力に長けているという意味であるということを再認識。そうでないとトラシュマコスとの対話が理解できない。
・・・
眼は「見ること」において徳を有する。すなわち、「見ること」においては最も能力に長けている。耳は聴くことに関しては能力を有するが、耳は「見ること」に関しては無能である。これは自明だ。
この理屈でソクラテスは機能と役割について話を広げる。
<魂>の役割とは生きることに関してであるとソクラテスは語る。
つまり徳を備えた魂とは、言い換えれば、能力に長ける<魂>とは、生きることに関して最も能力に長ける。日本人は「魂=精神」の理解で良いと思われた。魂という言葉を用いると訳の分からない宗教家を呼び寄せてしまう。
・・・
以上の話を前提知識として、再度「不正を行える者は正しい者より幸福である」と主張するトラシュマコスとの対話を精読した。
読書日記1197では、なんでもし放題の支配者は、実は他者へ利益を与えることになるということがソクラテスによって明らかになった。
つづきを読み進めた。
このつづきがなかなか難しく、帰宅途中歩きながら頑張って整理した。
正しいものは間違った者を凌ぐ。
間違った者は、正しいこともするし間違ったこともする。
言い換えると、正しい者は正しいことのみをし、不正は行わない。不正をしている者をみかけたらそれを阻止する。間違った者はときに正しいこともするが不正も行う。
ソクラテスはこの理屈を医者に当てはめた。
正しい医者は正しい仕方のみで治療行為を行う。誤った仕方をしている者を見つけたら阻止する。
間違った医者は正しい仕方で治療行為を行うが、ときに間違った治療行為を行う。
これを徳の話と照らし合わせる。
徳とは優秀であること、であった。
正しい医者は正しい仕方のみで治療を行う。誤った治療は行わない。ゆえにその人間は優秀な医者で、徳を備えている。
間違った医者はときに正しい治療行為を行うときもあれば間違った治療行為を行う。
つまり中途半端なのである。徳はない。
よって、正しい者は優秀で、不正を行うものは無能であると判明する。
ここで前提知識の徳を備えた<魂>は、生きることに関して優秀である。と照らし合わせる。
不正を行う医者のように、徳を備えない人間は<劣悪>であるから、生きることに対しても<劣悪>ということになる。
そしてソクラテスは結論を下す。
“「したがって、正しい人は幸福であり、不正な人はみじめである」” P109 (『国家 上』)
以上が第一巻の終わりまでの流れであった。
二巻へとつづく。
・・・
『ベンサムの言語論』はようやく第一部「ベンサム思想体系の哲学的基礎」を読み終えた。
次は第二部「ベンサムの「法の科学」と「自由な国家」の構想」に入る。
ロック→コンディヤック→トゥックの流れを追いつつ、経験論に依拠する言語思想の歴史をおおまかに理解することができた。
政治の問題は言葉の定義がしっかり成されていないことに多くの原因がある。
今も昔もそのことに変わりがないように自分には思われた。これは不変で普遍的な事実だろう。
哲学は言葉の意味を徹底的に疑う。非常にアクチュアルな営みだと思うのだが、何故こうも哲学は人々に忌み嫌われるのか、もしくは関心をあまり持たれないのか。
いろいろと考えさせられる。
公開日2023/11/15