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日記
ソクラテスは第一巻で正義は不正に勝ることを論証した。
第二巻では、それでもまだ完璧には説得できていないのか、聴衆に理解力が足りないからなのか、まだ不正のほうが正義に勝ると考える人間がいて、ソクラテスに対していろいろと持論をまくしたてる。
するとソクラテスは黙っていられず、「自分が息をしていて口がきけるのに、見捨てて助けないのは不敬虔だ」と語り、「国家と正義」という壮大な物語を展開していく。
一通り国家は読んだので結論は分かっているが、今回は再読にあたって自分なりに問いを設定して読むことにした。
現代の政治哲学は「カントの義務論 vs 功利主義」の陣営に分かれるという。
自分の理解では、カントの義務論は自己完結的であり、プラトンの思想に近いと見ている。
つまり「プラトン主義 vs 功利主義」の対立で考えても特段問題はないと見ている。
出光佐三が「共産主義にも必ず良いところがあるからそこを吸収すべきだ」と冷静に考えたように、カントの義務論と功利主義の両方には必ずそれぞれ良いところがあるだろう。
自分はその限界点を見極めたい。
池田晶子の「悩むな、考えよ」の言葉に励まされつつ、「善く生きる」ということはなにかという問いかけを行いつづける。
限界点を見極めるには、まずひとつの手段として自分は「政治ー倫理」のアナロジーを用いたい。
三島由紀夫は高橋和巳との対談 ( 河出書房新社『高橋和巳』)で「倫理を考えるとどうしても政治にまで及ぶ」と言っていたように、倫理と政治は「幸福」を追求する点で一致している。
前者は個人の、後者は社会の幸福を目指すものだと思われる。
今日はベンサムの「法の科学」からスタートした。
“まず最も基本的な前提として、ベンサムは功利性の原理にもとづき、法律というものを社会の幸福総量を増大させる重要な手段とみなすことから出発した。” P160 (『ベンサムの言語論』)
政治における「法律」は、倫理における何に該当するだろうか。
政治の主体は「社会」であるから、倫理の主体は「個人」と考えてみると、少ない時間ながら、自分は「神経」がそれに近いと今日は考えた。
一人の人間の身体を「社会」に例えてみる。
心臓や脳は生存機能として最も重要な位置を占める。これらは例えば「政府」や「貨幣」として置き換えることができるだろう。
動脈は鉄道、血は社会人、といったようにアナロジーで考える。
細胞は市民としてみよう。細胞にダメージを与えると痛みを伴う。ダメージは「損害」。
このように考えていくと、神経というものはそれを司令塔(国の最高機関)である脳が検知して対応を講じる。これが法律と神経が似ている点だと自分には思われた。
神経がなければ痛みや損傷に気づくことができず、あっという間に命を落とすかもしれない。
法律も似ている。社会としての損傷や痛みというものを検知する機能がなければ個体と同じように崩壊へと向かい、命を落とす(=国の消滅)だろう。
デューイが教育の原理を自然から引き出そうとしたように、国家の法律も自然の法則や原理から引き出されるべきではないか。そう考えても不自然ではない。
このように考えていくことで「プラトンの思想vs 功利主義」を深堀していくことが可能ではないだろうか。
・・・
以上のことを考えながら『学術書の編集者』を読み、公共的な価値について思いをめぐらせた。
出版業界は斜陽産業だ。古本屋も新刊書店も苦戦を強いられている。閉店も相次いでいる。(最近では東京駅の八重洲ブックセンター、新横浜の三省堂、渋谷のジュンク堂など)
公共的なものには貨幣的な価値はないかもしれない。
読んでみると、学術書には助成制度があることでなんとか成立している現状があることが分かった。
ソクラテスの「知を愛することは善である」は時代錯誤なのか?
これもひとつの問いかけだ。
だがしかしどうだろうか。
世の中には自己充足的ではなく、モノやコトにしか幸福を感じられない人が少なくないのではないだろうか。
それで経済がまわるならけっこうだが、モノやコトは本当に人を幸せにしているだろうか。
では何故モノやコトで満ちている日本の幸福度は世界全体で相対的に低いのか。
これもひとつの問いかけだ。
モノやコトが溢れすぎて「効用の逓減」状態に陥ってはいやしないだろうか?
流行というものはサイクルが早い。人はすぐに飽きる。
飽きるのは「効用の逓減」が不変だからだ。
人は同じ空間に一週間もいられない。
禁固刑はこの原理によるだろう。
禁固刑とは効用の逓減を利用した罰と言える。
思うに、幸福感と活力は相関性がある。
すぐに何かに飽きる社会は活力のない社会とも言える。
西部邁のニリヒズム論における活力への問いかけも幅を利かせる。
宮台真司氏も「活力=内発性」を人間の条件としている。
本と本の連鎖は止まらない。
考えることは日々増していく。
公開日2023/11/16