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その他数冊
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日記
2年前くらいに読んだ、早川書房から出ているジェニー・オデル『何もしない』が文庫化されていた。時間が過ぎるのが早い。『何もしない』をきっかけに自分はディオゲネスという最高に面白い哲学者を知ることになった。今読んでいる本が落ち着いたらディオゲネスに関する本を読みたい。
今はベンサムの功利主義とプラグマティズムに関連する図書として、ローティに関する本を読みたくなった。
『リチャード・ローティ=ポストモダンの魔術師』は冒頭からロールズ『正義論』の専門的な話が展開されてカフェで寝てしまった。眠たいときにこの本は便利だ。
ページをめくって「R・ローティを読み解く」の章を読んでみたが、クワインだの、物理主義だの、還元主義だの、スピノザだのと、何故かローティのことがあまり語られない。ジャーゴンだらけのややこしい本で参った。
・・・
『ベンサムの言語論』を地道に読みつづけて300ページ弱まで進んだ。
今日日記にあげたこの二つの本は非常に対照的で、『ベンサムの言語論』は非常に分かりやすい。
自分は学者にも文章能力が高い人と低い人がいるのではないかと思ってしまう。
昨日は「法の科学」について読み込んだ。
何故ベンサムは民法と刑法が分かれる理由を問うなかで、そもそもその問いが民法と刑法が分かれて存在することを前提にしていて、「命令的法」の構成要素として「民法的部分 civil branch」と「刑法的部分 penal branch」が同時にひとつの法のなかに存在しているのではないか、と分かった。
次にフランス人権批判の話に移行するが、このあたりは分かりやすい本ではあるものの、やや難しいところではあったのでひとまず考察の展開の仕方、繋がりというものは一旦無視してページを進めることにした。
今日300ページ弱まで読み進んで思ったことは、法律の難しさが民主主義が円滑に営まれる働きを妨げているのではないか、ということだ。
ベンサムが何故功利性に着目したかというと、抽象的で実体を伴わない言葉というものは虚偽を生むものと考えたからであった。
快楽と苦痛に還元される概念だけを言葉の定義にすれば、抽象性を弾き出して具体的で中身のある法体系を構築することができる。
法律を扱う人間の悪意すら感じるものもあった。
法律があまりにも抽象的、かつ複雑であるために一般庶民には理解されない部分がある。
その弱みにつけこんで法律に詳しい人間たちに有利になるように法律を変えていくことは容易であることは想像がつく。
そういう場合では、庶民は為政者の良心を信じるしかない。それでいいのだろうか。
ベンサムは、理想としては法は万人にとって理解可能なものであるべきだと考えたとされる。
265ページをメモした。
“しかるに他方で、ベンサムの言語論によれば、<現実的実体を主題とする命題、ならびにそうした命題が一定の関係性が存することが確認された命題のみが、明確な意味を備えた真なる命題たりうる>ということであった。それゆえ以上を踏まえる場合個々の法律の妥当性をめぐる議論をつねに功利性の原理に立脚させることは、一方において各論者の主張を明確化し、その真実性を担保することによって相互理解の促進を図ることに役立ち、かつまた他方において、議論の当事者たちが虚偽やナンセンスを含んだ議論を駆使して人々を欺くことを(またそれによって彼らの邪悪な利益を追求することを)防止するのに役立つ、ということが理解されよう。” P265 (『ベンサムの言語論』)
功利主義がただ「最大多数の最大幸福」と暗記することがあまりにナンセンスであることを再度認識。
本書のサブタイトルがプラグマティズムとなっているのも再度納得。
ベンサムは抽象と曖昧を徹底的に糾弾する。今日の国会の発言はどうだったろうか。「経済を新たなステージへ」という岸田総理の発言はあまりに抽象的だ。報道の関係で発言が部分的に切り取られているのかもしれないが、これでは何も言っていないに等しい。
公開日2023/11/20