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読書日記1209

         飯田隆『分析哲学 これからとこれまで』勁草書房 (2020)

■株式会社勁草書房

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日記

『始まりの木』の128項をメモした。

“科学は、鞍馬の険しい山中に経路を敷いたり、抗がん剤の量を計算することは得意だが、人の心の哀しみや孤独を数値化することはできない。数値化できないから存在しないと考えるのは、現代の多くの学者が抱えている病弊だ。こういう学者たちは、科学が世界を解釈するための道具に過ぎないことを忘れ、世界の方を科学という狭い領域に閉じ込めようとしてしまう。人間の哀しみや孤独、祈りや想いといったものを、ホルモンの変動で説明しようと試みることは、科学の挑戦としては興味深いが、ホルモンが変動していないから、その人間が哀しんでいないと考えるのは、道化以外のなにものでもないだろう」” P128 (『始まりの木』)

古屋准教授はニーチェ「神は死んだ」を持ち出し、神なき社会においては、首都圏を中心に、都市化が進むことによって人工的な生活空間となり、自然のなかに存在している(とかつては考えられていた)神というものが追い出されていった趣旨を語った。

次に古屋准教授はこうも言った。

“「研究所を出て、自らの足で町や山を歩いてみればすぐに気がつくはずだ。世界はそんなに単純にはできていない」” P129 (『始まりの木』)

同じフィールドワーカーでもある宮台真司氏がよく使う表現、「世界はそもそもデタラメである」を想起させた。

科学万能主義について、いま自分が疑問に思っていることはひとつ。

宮台用語「クソ社会」と科学の発展には相関性があったのだろうか。

自分が思うに、科学自体に罪はない。

科学の発展によるあらゆる問題は、結局のところ何が原因なのか。

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公開日2023/11/26

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