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読書日記1212

野本和幸『フレーゲ・ルネサンス:言語・論理・数学の哲学への招待』東京大学出版会 (2023)

■一般財団法人東京大学出版会

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その他数冊

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日記

言葉の真理というものを自分のなかで納得できるまで考えたい。

ベンサムが道徳を科学的に考えたように、自分も科学的に言葉と真理の関係を追究したいと思う。

ベンサムの打ち立てた功利主義とカントの義務論の対立構造についてある程度把握できた。

ベンサムは言葉の厳密性が政治を乱す根本的な原因だと考え、虚偽を排除することで全体に幸福をもたらそうと試みた。

カントは難解ゆえに、今の自分の解釈の仕方に少々自信はないが、幸福の源泉を個人の道徳法則(=倫理)に求めた。カントは共和国がこの法則が生かされていない「国=非共和国」を「共和制」にしようと、強制的に干渉してはいけないと考えた。

カントの構想における道徳の基盤は自律した人格であった。カントは厳密に言葉の定義にこだわっていないように見えることから、たしかに両者の公理は異なる。

公理は異なるが、両者ともに幸福を目指しているという点では一致している。

以上のことは整理できたので、自分はいったんベンサムが求めた言葉の厳密性というものを数学的に考えてみようと思うに至った。

しかし数学は言語の問題を取り扱わない。自分は数学と哲学の橋渡し的な領域である分析哲学(論理実証主義)に着目した。

ラッセルのパラドックスは『デカルトからベイトソンヘ』を読んだときに初めて知った。

これがどうやら「ダブルバインド」と「統合失調症」に関係するようである。

パラドックスがなぜ生まれるのか。なぜパラドックスごときで統合失調症の患者は苦しめられるのか。謎は多い。だからこそ考える意義はある。

・・・

前置きが長くなってしまった。

しかしこの二冊は仕事終わりの疲れた身体にこたえる。

今日はラッセルの例えについて唸りながら読んで、それで終わってしまった。

ラッセルは日常的な会話で使われる言語を「肉眼」、論理学を「顕微鏡」と例えた。

前者は経験的、後者は分析的。なるほどと思った。

だかしかし、顕微鏡は化学や生物学などのひとつの道具でしかない。

実験器具、実験装置は無数にある。

ということは、論理学は言語という世界のなかの狭い領域なのではないか。

そう考えると論理実証主義が哲学に与えるインパクトはそれほど無いとも思えてしまう。

しかしこれからだ。

論理学と哲学の狭間を歩いていく。

つづく

公開日2023/11/29

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