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読書日記1225

       池田晶子『睥睨するヘーゲル』講談社 (1997)

■株式会社講談社

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その他数冊

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日記

引き続き集合論を学習。

命題は客観的でなければならないという当たり前の定義を自分は完全に忘れていた。

前提を共有していなければ本に書いてあることが理解できないのも当然だった。

「富士山は高い」

この文は客観的に判断できず、主観的な内容であるので命題にはなり得ない。

しかし、そうなると社会科学の命題にはどうアプローチするのか?という疑問が浮かんだ。

「人間の性格は遺伝よりも環境のほうが大きく影響を与える」

これは今の文脈からすれば明らかに命題にはなり得ない。

弁証法は「形式論理学」と「弁証法的論理学」という区分けで整理することによってこの行き詰まりを解消する、ということを今日初めて知った。

“弁証法の立場では、当初は形式論理学を完全に否定していたが、現在では「形式論理学は一定の適用範囲内で適用すべきであって、その範囲を越えるものは、弁証法によるべきだ」という意見に落ち着いている。” P21 (『数学の基礎体力をつけるためのろんりの練習帳』)

講師がそばにいれば自分が見逃している前提というものをすぐに指摘してくれるが、独学はこれが出来ないためきつい部分もある。

今日は意味不明だったことをひとつひとつ潰すのにだいぶ時間を割いてしまった。

・・・

『睥睨するヘーゲル』

『事象そのものへ!』では、核戦争がどうした、という勢いで語っていた池田晶子だったが、今日はニーチェとニヒリズムのくだりでこのことについて触れていた。

自分は思った。

人間には理性があると言いながらも、実は感情面にほぼほぼ支配されている。

理性においては価値などあり得ず、「事実「~である」から「価値「~べき」を導けない」のは、仮に「真」だったとすれば、価値に関するあらゆる命題「その商品には○○の価値がある」というものが斥けられてしまうだろう。

うまく表現できない。語彙力が足りない。

なんとか書いてみる。

人間が感情的になればなるほど、否、感情的である分、事実と価値に関する錯誤、誤謬を「真」として受け止めてしまう。

価値は感情の次元であって、精神(=ヘーゲル的な、絶対精神、イメージとしては、感情なき理性)は価値を価値と認識できない。

しかし人間は理性と感情が統合されている。そして思うにほぼほぼ感情で占められている。

この矛盾を突破する存在がニーチェの「超人」ということであった。

集合論とヘーゲル弁証法が自分のなかで少しつながった。

今日はこれを少しでも理解できただけで100点を与えたい。帰り道は何故か北風が強く寒く、雨も降ってき、非常につかれた。

公開日2023/12/12

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