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読書日記1249

ヴォルフガング・イーザー『虚構と想像力 新装版』法政大学出版局 (2023)

■一般財団法人 法政大学出版局

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日記

難解な言い回しに手こずっているが、わずかに言いたいことが見えてきたような気がしないでもない。

読書日記1246では「文学の言葉」というものを少し掘り下げて考えた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/07/30/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%981246/

   

自分は、数学的な、直裁的でシンプルな美しさを文学に求めるべきだと書いた。

しかし、文学は性質上「フィクション=虚構」で成立している。

ベンサムは「虚偽 ≒ 虚構」が政治における欺瞞だと考えていたが、虚構というものを成立せしめるものこそこの虚偽に他ならないのだとしたら、文学に数学的な美を成り立たせることは果たして可能なのだろうか?そのような問題意識が、もしかすれば多少でもヴォルフガング・イーザーも持ち合わせていたのではないだろうか?そう考えることによって始めて、自分はこの難解な文章を斬り込んで行ける気がしたのであった。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/07/27/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%981200/

   

プラトンの詩人追放論を鑑みれば、果たして文学は芸術として成り立つことが可能なのか?という問いが生まれる。

プラトンもまた、詩人が虚偽に満ちていると考えた。

文学はたしかに芸術のひとつである。

芸術の内部に矛盾があっても美しければいいではないか、という意見もあるかもしれなし。

しかし言葉を扱う以上、真実にこそ美を求めるべきではないのか?

その真実は、何回も書いているように直裁的でシンプルでなければならない。

そのようなものを、「虚偽 ≒ 虚構」で表現しなければならない文学が担うことは果たして可能なのだろうか?

自分はそう問いかけたい。

つづく

公開日2024/1/1

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