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斎藤環『映画のまなざし転移』
”無関心か、暴力化。この構図はネットの炎上にもあてはまる。ネット情報は、知らなければ存在しないに等しい。しかし、急速に知られること(=拡散)は、ほとんど「炎上」によって起こる。なぜそうなるのか。おそらく強要された「PC」や「寛容性」は、倫理性よりは無関心につながるのだ。「(マイノリティは)迷惑にならなければ存在してもいい」という寛容性=無関心に。しかし、この種の無関心は、ごくわずかな不正や迷惑が検出された瞬間に、激しく炎上し、攻撃性に転化するだろう。” P234
※PC=ポリティカル・コレクトネス
無関心は無知と親和性が高い
脱力感、無力感は無関心となって日々の行動に投影されていく
無力感が生まれる構造とは
いかにしてニヒリズムと関係するか
無関心とはつまるところ、、、親ガチャに限らず、運命に対する責任の放棄
なぜ運命に対する自己放棄が発生してしまうのか
承認が足りない、相互承認が足りない
こういうことを考えると自由や権利へテーマが迂回する
斎藤環「政治的正しさが強要される場所ではいたるところで矛盾と乖離が発生する」
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×月×日
引用元不明
“作者の権威を問い続けること、そのことによって逆説的に主体の痕跡を完全に消失してしまわないことは、文化作品がたんなる消費財ではなく大衆芸術として歴史に責任をもち、現実の暴力への批判的介入へとなる可能性を、かろうじて担保しておくことであったのだろう。” P61