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ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』読了+新・読書日記128

ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』紀伊国屋書店(2014)

■株式会社紀伊國屋書店

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感想

とても長く、購入してからだいぶ時間が経った。ようやく読み終えることができた。

読み終えたあとは世界の景色が変わって見えた。何回も書いているかもしれないが、本というものは読めば読むほど分からないことが増える。しかし、何について分からないのかが分かるので、余計に無知になるということではない。これは非常に大事なポイントだと自分は考えている。入り立ての職場やバイトでよくあることのひとつで、「何が分からないかが分からない」というものがある。質問すらできない状況。これは経験値がなく、非常に初歩的な状態だ。しかし何が分かっていないかが分かることによって質問できるようになる。そして質問と返ってくる答えの記憶の往復によって仕事ができるようになる。これは読書にも同じことが言える。最後まで読めば何が分からないかくらいは把握できる。それが読書の醍醐味だと自分は考える。

  

早川書房から『「社会正義」はいつも正しい』という本が出た。自分は6割くらい読んで止まってしまったが、それからポリティカル・コレクトネスというものに関心が湧いたように思う。

社会学のコーナーに行くと、近年LGBTQ関連の本の加速が止まらないように見える。

数冊立ち読みすると、さすがに「ポリティカル・コレクトネスは行き過ぎたか」と問う本もあった。

知人から聞いた話だと、ディズニーでさえもポリティカル・コレクトネスに過敏になっていた時期があったのだという。

  

自分はこの現象と「コンプラ」は繋がっているように感じた。しかし犯人が分からない。なにせ社会的なものであり、誰かが発端になって始まったわけでもない。そして、このコンプラというものがなにか社会をつまらなくしているのではないか、という疑問を自分は抱いていた。だから自然とこういった政治関係の本に手が出るわけである。

  

ひとつだけこの現象に対する理解のヒントとなるものが見えてきた。「自己家畜化」という概念である。自分は人間に「家畜化」という言葉を使いたくはないのであるが、共通語のように流行しているので使わざるを得ない。

コンプラという現象はこの「自己家畜化」のプロセスの延長線上にあるのではないか、というのが自分の仮説である。つまり、暴力的な人間は長期的にみれば排除されるということである。実際、パワハラ関係では社会的に淘汰される時代に突入している。これは自然界においても同様で、ホモ・サピエンスがネアンデルタール人に勝ったのは自己家畜化と無関係ではないらしい。暴力的な人間が集団にいる場合、長期的に見ればその手段はそうでない集団よりも生存確率が低い。それが延々と続いて今に至る。死刑制度廃止論もこの自己家畜化プロセスのうちなのかもしれない。

  

書いていて気がついたのは、ポリコレも暴力のうちに入るのではないか、ということである。

女性が不当に扱われていることによって、逆に今度は男性が差別される。差別される男性の例として「チー牛」といったネットスラングがある。差別が差別を生む。良くない悪循環がポリコレという名の世界には多数存在するようにみえる。

しかし、これが暴力の一貫だとすればやはりいつかは淘汰されて消えるのではないか、というのが自分の見解だ。そう考えてみると「なぜ社会正義はいつも正しいのか」という問いはあまり意味を持たない気がするのであった。

  

・・・

本書のタイトルの意味はある程度回収できた。

なぜ分かれるのか。それはミラーニューロンであったり、宗教であったりする。

細かいことはネタバレになるのであまり書けないが、科学的にも左右に分かれる原因がいろいろと解明されてることは理解できた。

例えば、ミラーニューロンは友好的な人に対してよく働き、利己的な人にはあまり働かないといった事実について書かれていた。原子から分子、分子から高分子と大きくなっていくうちにその質的な差がどんどん開いていくように、ちょっとしたことから人間は質の異なった集団が次々と生まれていく。そして両者はにらみ合い、利他性は集団のなかにおいてのみ発揮される。ゆえに争いはいつまでも消えない。

  

本書のタイトルについて真剣に考える必要はないと自分は考える。大事なのは、本書から得た問いかけを自分なりに行っていくことである。

  

メモ

ミラーニューロンについて

“のちに研究によって、ミラーニューロンのほとんどは、身体の特定の運動ではなく、より一般的な意図や目標が示された行動を見て発火することがわかっている。” p364

  

”(・・・)人間は条件つきミツバチであり、自分の道徳マトリックスに反する者より従っている者に共感し、後者の行動を模倣することが多い。” p366

  

デュルケームによる宗教の定義

「個々のメンバーを一つの道徳共同体へと統合する、信念と実践を一体化させたシステム」

  

・人間は世俗的な集まりよりも宗教のほうが団結力が強い

⇒儀式や祈りなど、恣意性を「見かけの必然性」で覆い隠されるからである

  

“道徳は人々を結びつけると同時に盲目にする。” p425

同じ価値観同士で固まると視野が狭くなるのは当然である

  

・リベラルが保守に対して持つステレオタイプと保守がリベラルに対して持つステレオタイプには食い違いが見受けられる

⇒お互いが歩み寄れない原因のひとつとなっている

  

「差別発言による炎上 ≒ 部族的反応」

人間は集団内においては利他的でありながら、別の集団においては利己的になる傾向がある

  

・・・

新・読書日記128

        濱真一郎『バーリンとロマン主義 (新基礎法学叢書13)』成文堂(2017)

■株式会社成文堂

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            高橋和巳『憂鬱なる党派 上』河出文庫(2016)

■株式会社河出書房新社

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日記

『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』の著者はヒューム「理性は情念の奴隷である」を支持している。自分はプラトンと池田晶子にかぶれてしまったのでそうは思えない。また、カントの美学に惚れ込んだこともあり、どこか納得のいかないところがある。

ということで、自由についてアカデミックな世界の見解をいろいろと学ぼうと思っている。今日はバーリンだ。

  

カント主義者は「価値が因果法則からの自己解放である」と考えているようである。

価値と意味という二つの言葉は非常に似ている。2019年頃からよく考えるテーマである。

しかし因果法則からの解放、という点において「意味」という言葉は「価値」という言葉とはやはり違うかもしれないと思った。

  

「意味」という言葉には、必ず対象があって、そしてそれを指示するものがある。「意味」とはこの二つの関係性に関する言葉のはずである。であれば、「価値」とはなんだろうか。

これをぼーっと考えると、わかったようなわからないような感じになってくる。

これは論理の問題からかけ離れた深淵な問いかけだ。だからこそ深みがある。

  

メモ

“ペリクレス統治下のアテネや古代ローマ共和国は、マキアヴェッリには、人類にとって最良の時代に見えた。” p24

  

“マキアヴェッリによると(・・・)キリスト教の徳によっては、それがいかに価値があろうとも、彼の望む社会(人間の永続的な欲望と利益を満足させる共同体)を作ることはできない。” p24-25

⇒キリスト教の徳は人間の欲望を満足させない

  

マキアヴェッリ「複数の価値体系は衝突し、調停することはできない」

  

メモ

人生の意味について

人生の意味とは何か?という問いには、あらかじめ「人生とは何か」が分かっていなければならない。

人生とは「働いて、食べて、寝る」としか思っていない人にとって人生の意味とはやはりそれ以上持ちえないのではないだろうか。つまり先に問うべきは「人生とは何か」ではないのだろうか。

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