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読書日記1265

ベルンハルト・ヴァルデンフェルス『フランスの現象学 <新装版>』法政大学出版局 (2023)

■一般財団法人 法政大学出版局

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その他数冊

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日記

カフェで深い話をしている高齢者の会話が気になってしまった。

世界文学全集を揃えていて、そろそろ死んじゃうけど結局読んでいないものばかりだ、という話をしていた。

多忙で忙しい社会人生活。24時間戦えますか。そんなときにバカみたいに時間のかかる文学全集。やはり時間のある時、そして読む意欲のあるうちに読んでおきたいと実感。

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『フランスの現象学』

メモ

(サルトルの言葉)

“したがって想像力は、経験的で偶然的な能力ではなく、「おのれの自由を現実化する限りでの意識全体」なのである。” P79

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“人間の現存在のこのような可能性、すなわち「無を分泌し、それによって現存在が孤立する」(61/65)という可能性を、サルトルは<自由>と呼ぶ。存在の肯定性と相補的に、自由は純粋な否定性となる。自由は、存在との絶えざる決別を、人間が世界および自己自身から身を引き離すことを、意味している。” P85

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『芸術とマルチチュード

メモ

(リオタールの言葉)

”「思考することは、それ自身の特異性にしたがって到来するものを受け入れるということである。すなわち<到ー来 [ ad-venir ] >へと開くことである。芸術作品が行っていることは、これをおいて他にない。芸術作品は、世界へとやってくることによって、この作品以前には想像不可能だった色彩のーー音の、あるいは、語の、戯れを現前させるのだ。このことは、とりわけ抽象化が創出される以降の現代アートについては、真理である……。” P73

(ネグリの言葉)

“崇高なるものとは、芸術と自然とを、美と無際限な数学的大きさとを、混ぜ合わせたものだ。” P85-86

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『レヴィナス読本』

メモ

「イリヤ ≒ ある」

(イリヤについて)

“さらにレヴィナスは、こうした「ある」の経験を、しばしば「夜」の経験になぞらえている。誰も逃れることのできない「ある」とはいわば、眠ることなく覚醒し、自己を監視し続ける夜のようなものである。” P28

・・・

レヴィナスは1906年に生まれた。

1961年、『全体性と無限』の提出により、50代でようやく大学の教員になった。

フランス軍の捕虜だったのでユダヤ人ながらも強制収容所送りは逃れられたと書いてあった。また、収容所のなかでも執筆をつづけたと書かれていた。

厳しい生活を強いられながらも執筆をつづけたフランクルを思い出した。

レヴィナスも元々は在野の研究者ということであった。

ロラン・バルトも遅咲きの哲学者として知られている。

エリック・ホッファーも在野の哲学者であった。

哲学史を学べば、いろいろな人がいるものだなと思う。

地道にコツコツ、自分の好きなことを読みながら、考えながら、書きながら、ひっそり生きようと思えた一日であった。

公開日2024/1/16

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