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日記
「フランクファート型事例」の検討をつづけて読み進めた。
整理する。
そもそも本書は「自由とは何か?」という問いを突き詰める本であった。
そして、自由というものを定義し、その例外を探し、新たに定義をする。その例外を探し、再び定義し、修正できないところまで来た時点で自由を定式化するというのが自由論の営みである。
そこで「責任」と一緒に考えることで先に進みやすいということで、以下から自由と責任について、「他行為可能性(別のことはできたか)」という観点から進む。(他行為可能性原理=PAP)
PAP:行為者が彼の行為に直接的に責任を負うのは、彼が実際にしたとは別の行為をすることができたときに限る。
フランクファート型事例とはPAPの反例である。
表向きPAPを満たしているが、実際には満たしているようには見えないことを指摘した事例である。
フランクファート型事例は以下のふたつを満たす。
1.行為者Sはある行為Aを遂行したが、A以外の行為をすることはできなかった。
2.行為者Sは行為Aに対して責任を負う。
その事例は以下となる。
行為者Sは殺人を企てている。行為者Sにはチップが埋め込まれている。殺人を決意しなかった場合のみに作動し、作動した場合は殺人を決断する。つまり、殺人を決意しなくとも、せずとも、必ず殺人をおかしてしまう。行為者Sは殺人を「決断するかしないのかの選択肢がある」と見なされるため、責任を負うことになる。
犯罪が問われるのかどうかは、それを「しない」という行為を選択できることが条件である。
「主体」「自由」「選択」「責任」「応報」などの概念が鎖のように繋がっていることは山口尚『人が人を罰するということ』にそつなくまとめられている。
フランクファート型事例はPAPへの反論となり得るのか?
今日はフランクファート型事例に対する反論を読み進めた。
批判1
行為者Sが殺人を決意したときに「頬が赤くなる」と仮定する。チップはこの赤くなった場合には作動し、赤くならなかった場合は作動しないとする。
「頬が赤くなる」というのは、そうしようとしても自発的にはできない。
この瞬間に限っては「選択の自由」がないために、他行為可能性原理が否定される。
批判2
殺人を決断してから実行するまでが「非決定論」の場合、必ずしも実行されるとは限らない。チップは決断しない場合のみに作動する。しかし非決定論の場合、決断したからといって最後まで物事はランダムなので必ずしも実行されるとは限らない。これが「1.行為者Sはある行為Aを遂行したが、A以外の行為をすることはできなかった」を崩す。
このフランクファート型事例は現在も論争中ということで、本書ではこれ以上掘り下げない、ということでいったんストップ。
責任と自由については小坂井敏晶を参考すると視点が増える。
山口氏の本は『責任という虚構』への応答ともなっている。
また、これに類似するものとして『格差という虚構』もおすすめである。
小坂井氏は他にも多くの本を出しているのでそれも参考になると思われる。
また、自由については大澤真幸氏の本やカントの本も参考になる。
・・・
『正義・平等・責任』
メモ
G・E・ムーアの「孤立化テスト」
⇒(規範的概念は)「絶対的に孤立化した状態で存在するとしても、われわれが善いと判断するようなもの」を確かめる手法
以上により「愛情」と「美の享受」がそれに相当すると洗い出された。
⇒現代の課題は「その概念をカバーする事態が成立する条件」を明らかにすること
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『心の深みへ』
メモ
(河合隼雄)
“われわれは覚悟もなく生きているから、父と子の対話がまったく成立していない。ふだんでもそういう対話を成立させようと思ったら、背後に死がなければならない。ところが、みんな死のことを忘れて対話しているから、それはほんとうの対話になっていない。残念ながら、現代人は死に直面したときだけ対話ができるという、とてもおかしなy状況になっているのです。” P49
河合隼雄の言葉は英米のヒューマニズムへの批判であることに疑いはない。
執行草舟は「肉の思想」と呼んでいた。
・・・
アラン「精神とは肉体を拒絶するなにものか」という定義について思いをめぐらせた。
この定義を深堀りするには現象学を通過すると良いのかもしれないとかすかに思えた。
というのも、精神と肉体は対義語の関係にあるのではないかと思われたからである。
いや、厳密には意識が肉体と対義語にあると思われた。
「意識ー精神・肉体」のイメージである。
認知行動療法の本質をアラン的に言い直すことで、精神と肉体の関係を詳述できるように自分には思われた。
帰宅する際にこの構想が頭に浮かんだ。
つづく
公開日2024/1/20