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読書日記1317

       池田晶子『睥睨するヘーゲル』講談社 (1997)

■株式会社講談社

公式HP:https://www.kodansha.co.jp/

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/KODANSHA_JP?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

その他数冊

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日記

『法哲学と法哲の対話』

政治経済に関心を持つとやはり法学にも興味が向かってしまう。

つい手にとってしまった。立ち読みすると、今まで得た知識をフルに生かしても立ち向かえなさそうな、深い問いかけで満ちていた。

一橋大学のHPに入ってこちらの記事も読んでみた。

  

「隠された大きな前提を見逃さず、顕在化させる法哲学
法学研究科教授安藤 馨」
CHAT IN THE DEN

2021年12月22日 掲載

https://www.hit-u.ac.jp/hq-mag/chat_in_the_den/450_20210902

  

読んでいくと、法哲学と分析哲学の親和性が伝わってきた。

分析哲学は理解するためにかなり精神的な負荷をかけるため、敬遠しがちであったが、安藤馨氏は時代とともに徐々に変わる実定法の勉強に馴染めなかったエピソードなどは非常に共感を覚えた。

反事実的条件法についてはこちらの本で多少かじったので、法哲学という分野がいかに小難しいのかはすぐに理解した。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/08/06/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%981270/

   

メモ

間接適用説

“憲法が保障する人権は第一義的には国家に対するものであり・私人間の関係については民法上の公序良俗(90条)を判断する基準といった形で読み込まれるに留まる” P9

⇒宇宙船のなかに「国家」は存在するか?

なければ、宇宙船のなかには人権がないという理屈が成立する。

・・・

『睥睨するヘーゲル』

メモ

定期的に流行する哲学ブームについて

“何かいいことと思って始められるような哲学だから、結局いつもブームで終わるのだ。” P142

「考える」と「悩む」の違いについて本書では踏み込んで書かれていた。

自明性そのものを謎だと捉え、その自明性を疑うことが「考える」ことである、という具合に自分は解釈した。

「悩む」とは、その自明性までは疑わない。

池田晶子がいうには、人生について悩むことができるのは、人生というものがあると信じて疑わないからだそうである。

人生というものがあると信じられないならばそもそも悩みなどない、ということを書いていた。

「考える」という動詞の使い方が常軌を逸しているような気がしなくもなかった。

ただ言いたいことはなんとなく分かった。

「哲学は甘くない」ということを池田晶子は書いていた。

・・・

『日本教の社会学』

メモ

“マックス・ウェーバーの宗教の定義は、レーベンス・ヒュールンク、つまり生きざま、行いの仕方、行動様式ーーもっとも単なる外面的な行動様式だけではなくて、外面的な行動様式を内面から考えるような心的条件を含めた行動様式ですけどーー彼の場合は「エトス」という言葉と「宗教」という言葉をほぼ同じ意味で使っているわけです。” P121

宗教を意味する英語、レリジョンはラテン語では勤行、拘束力、神聖性といった意味があり、教義のようなものを絶えず読み返す、といった意味合いがあると山本七平は語った。

つづけて、「宗教」という言葉は明治時代に作られたようである。

「宗教=再読」と捉えれば宗教のない世界はないと山本七平は語った。

時間があれば明治時代についていろいろ調べてみたいと思うようになった。

・・・

『文豪、社長になる』

半分ほど読み終わった。

芥川賞と直木賞が創設された経緯について書かれていた。

直木三十五という人物の名字が植村だったので、「植」を二つに割って「直木」にし、三十五というのは単純にそのときの年齢という、遊び心なのか悪ふざけなのかよく分からない命名法であることが分かった。

大変な浪費家で、後先考えず、借金を抱えては成功し、散財して菊池寛のところに出戻りしたりと、なかなかぶっ飛んだエピソードは読んでいて面白かった。

とくに、現役バリバリの作家の悪口を堂々と雑誌で書いてのける大胆さは痛快であった。今では瞬殺で干されてしまうだろう。

雑誌を商業として成立させるには、大衆受けを考えねばならない。

たまたま直木の書いたものが当時の民衆に受けたので「大衆小説=直木賞」となってしまった経緯が分かった。

また、メンバーの横光利一はその低俗さに耐えきれず脱退したという。

(横光利一はパリで岡本太郎と交流している。)

川端康成は菊池寛の年下であり、本書にも少しだけ登場したが脇役であった。

・・・

『崇高と美の観念の起源』

メモ

バーク「美という一般概念は自然的均斉とも慣習的均斉とも全く係わりない」

“確かに畸型は普通の均斉の欠如から起こるが、しかし普通の均斉が或る対象に備わっていればそこから美が必然的に帰結するのでは決してない。(・・・)我々人間は誠に奇妙な存在であって、一方においては目新しさを極端に願望しながらも同時に慣行と習慣にも強く固執する傾向を持つ。” P112

”美に対する真の反対概念は不均斉もしくは畸型ではなくして醜(ugliness)である。” P113

バーク「適合性は美の原因ではない」

“ライオンは的と闘う上で何と素晴らしい武器を備えていることか!しかしだからと言って、象や狼やライオンが美しい動物だと結論する人がいるであろうか?” P115

バークは力強さ(ライオン)や目的合理性(象の鼻など)は、美にとって必要な条件ではないということを書いていた。

カントも合目的性という言葉で似たようなことを書いていた記憶があるが、たしかカントは美の定義を「目的なき合目的性」と書いていた。

目的がないのに「合目的性」という、日本語としては少し矛盾しているように自分には思えたが、カント的には何が言えるだろうか。

理解しているようで実は理解していない、もしくは忘れている。

ブログを書いていくなかでそういうことが露呈してきている。

これではまずいと思いつつも、書くだけ書けばいいと言い聞かせつつ、とりあえず記録は残したいものである。

今日は土日ということで、紀伊國屋書店は繁盛していた。

人々は何を感じ、何を考え、何を求めるのか。

一日だけでもいいので大型書店の書店員をやってみたいと感じている自分がいた。

  

公開日2024/3/10

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