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感想
唯美主義小説の古典
哲学的なことを考えさせれる、思想的な語りが多い、個人的に好きな形式であった。
ナルシストかつ唯美主義者のヘンリーが多弁で非常によくしゃべる。しかしその内容が非常にユーモラスで、示唆に富み、アイロニーも抜群に利いてる。仮にヘンリーがワイルドの分身だったら、という仮説を立てれば、ワイルドの人物像がちょっとだけイメージできる。
ノートに書きたくなるような箴言に溢れる、思想的な小説であった。
自分は学問としての美学には関心が高いけれども、だからといって唯美主義者でもない。
美しいということは「完全」ということでもある。カントは美を「無目的の合目的性」と定義している。
美と倫理については去年、カント『判断力批判』を読みながらよく考えた。しかし、あまりに複雑なため、ある線を超えることができなかった。
唯美主義は自分にとって、軽蔑の存在であった。おそらくワイルドはヘンリーになりすましていろいろと吹聴しているのだろうけれども、読んでいて面白さは感じるが、仮にヘンリーが友達だったとしたら、お互い意見がぶつかり合う気もしなくもない。
唯美主義者は快楽の奴隷としか思えないのである。思えなかったのである。ただ、この小説を読まずにそういうことを語る資格はないと思ったので、ようやく少しは語れる段階に来たわけだ。
ただ、今日は文学論をするつもりはないので、この本の感想を少し書いて幕を閉じたい。
当たり前の話かもしれないが、美には常に危険がつきまとう。この小説も、最後まで常に危険と隣り合わせであった。読んでいて、次になにか起こるぞと、そういう不気味な感覚を覚える小説であった。
満月は人を狂わせるという話があるが、美もまた人を狂わせる。なぜなのか。
古代人は、美に潜む野蛮性とともに生きてきたのだろうか。そんなことも考えさせられる。戦争の原動力は欲というよりも、美に潜む野蛮性なのではないかとすら思えてくる。美は限りなく野蛮だ。
美しさは罪だという決まり文句があるが、これは真理だ。なぜなのか。
なぜ、なぜ、が止まらない。
美とそれが人間に与える心理的影響、これは現代科学をもってしても説明不可能である。
美は完全であるが、安全ではない。うまく表現ができない。
美しいものは人間に盲点を与える。それがなぜなのか。
というよりも、自分は美について何も分かっていないのが正しいかもしれない。
美しさにも多様性があり、まったく掴めていないのかもしれない。だから学問の美学は面白かったりする。
芸術は神の模倣とルネ・ジラールが言っていたみたいである。
神という存在を自分は信じないが、美と神には「完全性」という共通点がある。
キリスト教の野蛮性と美の完全性がまじりあったような崇高な物語、それが『ドリアン・グレイの肖像』ということにしておこう。
メモ
“「(・・・)善良であるよりは美しいほうがいいとぼくが考えているのは確かですよ。しかし、もう一方では、醜くあるよりは善良であるほうがいいということを、ぼくほどすんなり認めている人間はいないですからね」” P388
“人間が絶対の確信を抱いている事柄は決して真実ではないからな。” P429
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新・読書日記164(読書日記1504)
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その他数冊
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日記
午前中は池田晶子の本から読み始めて、最後はドリアン・グレイの肖像を読んでいた。その中間、昼に何を読んでいたかあまり覚えていない。
池田晶子はハッキリと物を書くので好きだ。
テレビについて池田晶子はハッキリと語る。
“テレビを見ると人間が馬鹿になる。” P119 (『人間自身考えることに終わりなく』)
メモ
“悪いことは、悪いことだから悪いことなのだ。百万人がそれを悪いと言っても、自分がそれを善いと判断するなら善いことなのだ。倫理というのは、自分で善悪を判断する自由が自分にあると自覚してこそ可能な行為で、外的な法律や道徳の内に倫理など存在してはいない。善悪は誰もが自らの内に問うしかないのだ。” P96
“テレビを見ると馬鹿になるというのが持論だが、広告はもっとである。買え買えと耳元で連呼されても平気な鈍感さは、人生を売り渡しているに等しいと感じる。” P148-149
いまこんなことを書ける人がいるだろうか。
ほとんどいないのではないだろうか。表現の自由はあるかもしれないが、言いたいことが言えない社会になっていないだろうか。そんなことをひしひしと感じた。
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『希望の原理 第一巻』
メモ
“考えるとは、踏み越えることである。(・・・)本当に踏み越えるとは、歴史のなかに備わっている弁証法的に進展する傾向を知り、活性化することである。” P19
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『人間的、あまりに人間的 1』
”天才崇拝の危険と利益。ーーー偉大な、卓越した、みのり豊かな精神に対する信仰は、必ずではないが、きわめてしばしば、あのような精神が超人的な起源のものであるとか、或る種の不思議な能力をそなえていて、それにより彼らがその他の人々とはまったく別の仕方でその認識にあずかりえたかという迷信、あの全然または半分宗教的な迷信と、まだ結びついている。人はよく彼らには、いわば現象という外套にある孔を通して、世界の本質を直接見透かす眼があるものとして、彼らが学問の労苦も厳密さもなしに、この不思議な透視者の眼によって、人間や世界に関するなにか究極的なものや決定的なものを伝えうる、と信じている。” P197-198
“合理的な不合理ーーー生命や犠牲が熟してくると、父親が自分をつくったのは不当であった、という感情が人間を襲ってくる。” P351
“熱心と良心的であることと。ーーー熱心と良心的であることがしばしば敵同士となるのは、熱心は果実をすっぱいうちに樹からもぎ取ろうとするが、しかし良心的であることはあまりにも長く生らせておいて、ついに果実が落ちて割れてしまうようなことになるからである。” P445