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新・読書日記179(読書日記1519)

          テリー・イーグルトン『文学という出来事』平凡社(2018)

■株式会社平凡社

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   平野 篤司『ゲーテからベンヤミンへ: ドイツ文学における主題と変奏』四月社(2014)

■有限会社四月社

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          ポール・オースター『孤独の発明』新潮文庫(1996)

■株式会社新潮社

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公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/SHINCHOSHA_PR?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

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日記

ジョルジュ・バタイユは文学の意義について以下のように書いている。

「文学のみが社会的約束を超えて、人間と歴史の方向を向いた破壊の特権を行使しうる。それが自由ということだ。文学は禁止と秩序の原理をぐらつかせることをもって使命とする。」

テリー・イーグルトンは小難しい哲学史や文学理論を語りながらも、文学は「規定不可能なもの」だということをハッキリと書いていた。

自分はそれが「自由」の「象徴」と思えた。

逆説が臨界点を超えると「自由」に達する。そういう感覚を覚えた。

三島由紀夫は文学が機能化され得ないということを信じたいと『人間と文学』で語っていたが、それは換言すれば文学は「規定され得ない」ということを信じたいと思うことと等しいと自分は解釈した。

(読書日記1518に収録)

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/09/22/%e6%96%b0%e3%83%bb%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%98178%ef%bc%88%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%981518%ef%bc%89/

   

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メモ

『ゲーテからベンヤミンへ: ドイツ文学における主題と変奏』

“詩というのは、根本においてリズムを中核として、人間の全体性を志向するものなのだ。” P60

  

“「異なるものに原像においても親しませる」(・・・)アドルノの認識論では異なるものこそ真実を知るための不可欠の要素である。” P82

  

(ヘーゲル)

“「最も高く、最も優れたものは、作品が表すよりももっと深いものを詩人が自らのうちに秘めているというような言い表せぬものなどなく、その作品こそ芸術家の最善のものである」” P86

  

“アドルノは、「意味の明確な否定の道筋が、真理内容への道筋である」というが、これは新たな弁証法的展開の道筋を指し示すと共に、アドルノ独自の弁証法に対する重み付けを如実に示しているということができるだろう。” P90

  

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『文学という出来事』

メモ

“オッカムのウィリアムのような唯名論者は、実在論者が言葉と物とを混同していると考えた。ポール・ド・マンのような文学理論家たちと同じように考えたのだ。わたしたちは「プールヴァード [ 広い並木道、大通り ] 」とか「ブナの木」と発音できるがゆえに、こうした用語に対応するなんらかの特定可能な実体が存在すると思い込みがちである。この観点からすれば実在論というのは物象化の一形態である。” P23

⇒未知の物体が出てきても名づければ済む、ということ

⇒あらゆる存在に名を与えることができる、ゆえに実在論は物象化の一形態といえる

  

プラトン主義者的観点からすれば、唯名論者は「物質的想像力に絡めとられてしまい、そこからみずからを引き離すことができなくなっている」

  

ポール・ヴァレリー「芸術とは恣意的なものから必然的なものへの通路である」

  

(クリストファー・ヒュー)

“「あらゆる文学言説は他のなんらかの文学言語と、なんらかの点で類しているだろう、しかし、あらゆる言説が、ただひとつの点でたがいに類似するということはないだろう」” P40

   

“(・・・)ロマン主義以降、芸術のもっとも重要な機能と目されてきたもののひとつは、その栄光ある類似なき特徴すなわち機能がないという特徴だった。したがって芸術は、それが語る内容ではなく、そのありようによって、文明それも有益性とか交換価値とか計算高い理性の呪縛にある文明に対し、暗黙の反論としてふるまってきた。この観点からすると芸術の機能とは機能をもたないことにある。” P44

⇒三島由紀夫の「脱・芸術至上主義の機能化」の語り口と類似している

  

『文学という出来事』は岩波文庫『文学とは何か』から30年経った後に罹れたそうである。

そのため、内容的にはさらに高度になっている。(と自分は感じている)

最初に読んだときはほとんど内容が分からなかったと記憶しているが、今は読みごたえがあり面白く読めている。

他に、今日はペーター・スローターダイクの本も読んでみたが、そちらは全く駄目であった。

  

今日は三島由紀夫の教養主義の話や、法哲学など深い話を読めて充実した読書時間になったように思う。

やはり文学は自由でなければならない。規定不可能性。逆説。しばらくこのテーマについて自分は考えてみたい。(「逆説の書」という本を書いてみたいと最近思っている)

つづく

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