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日記
ここでは書けないが、ある夢を見た。その夢が自分に惨めさを与えつつも、悔しさに変わり、その後不快感を昇華させようと思い、連休最終日もひたすら読書するしかないという気持ちで、結果的にただただ読書する一日となった。最後に寄り道したブックオフが奇跡的に全品20%オフということで、テンションが変になりつつも、とりあえず一度手放してしまった世界の名著、セルバンテス『ドン・キホーテ』をまとめて購入。
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中村光夫/三島由紀夫『対談: 人間と文学』の内容が思った以上に頭に残った。
哲学者の國分功一郎氏が『目的への抵抗』という本を出しているが、「目的」と「文学」の理想的な位置関係を三島由紀夫はうまくまとめていたので、「目的への抵抗」という言葉の意味について昨日、今日と、連続的に思いを巡らせることになった。
文学が社会的な機能化にからめとられることを三島由紀夫は嫌がっていた。
文学は「目的」にはなり得ないし、なったらそれは文学ではない。小難しいテリー・イーグルトンも似たようなことを書いていたので、このことについて自分も考える良い機会となった。
これは自分の人生への問いかけとも直結する問題である。
自分は少し前に、何のために何を読むのかといった稚拙な文章を書いた。あの文章は目的意識が高いため、目的への抵抗どころか、目的というひとつの機能にからめとられている気がしてならなかった。
「何のために」という問いは往々にして目的を要求する問いである。世俗的で実利的、功利的で打算的な問いかけだと反省することとなった。
某作家は「目的を持つとろくな人間にならない」といったことを書いていた。これは真理に近いと感じた。
自分はカントの「無目的の合目的性」についていろいろと考えたはずなのに、いつの間にか常に目的意識を持っていることに気が付いた。今まで自分は何を問いかけてきたのか。
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『『失われた時を求めて』名文選』
メモ
“付和雷同の本能と勇気の欠如は、あらゆる群衆を支配しているのと同様に、あらゆる社交集団をも支配している 〔・・・〕。ばかにされている人を見ると皆がその人をあざ笑い、十年後にどこかのクラブで同じ人間が褒めそやされていると今度は皆がその人を崇拝する。” P106
“人間にはつぎの法則のあることが納得できる。その法則とは・・・もとより例外はいくらでもある・・・、頑固者とは他人に受け入れられなかった弱者であり、他人に受け入れられるかどうかなどには頓着しない強者だけが、世間の人が弱点とみなす優しさを持つことである。” P106
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『新版 集中講義!アメリカ現代思想: リベラリズムはどこへ行くのか』
メモ
漸進的改良主義・・・・行為の帰結を見ながらやり方を変えていくというデューイの考え。西ヨーロッパからすれば、この考えは資本主義社会との妥協に見えてしまう。
ネオ・プラグマティズム・・・・・分析哲学にクワインの思想が取り入れられたもの。
⇒ヒラリー・パトナム、リチャード・ローティ、トマス・ネーゲル。
自由主義の矛盾
⇒多数派が全体主義を望むことによって全体主義の発生を許容してしまう。
(エーリッヒ・フロムの言葉)
“人間が社会を支配し、経済機構を人間の幸福の目的に従属させるときにのみ、また人間が積極的に社会過程に参加するときにのみ、人間は現在かれを絶望ーーー孤独と無力感ーーーにかりたてているものを克服することができる。” P44
⇒ハイエクはこの計画経済的な考えを批判
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『文学という出来事』
“しかし文学は、内的属性によって区別できないと考える批評家もいる。理由は、そんな属性など、そもそも存在しないからである。” p60-61
“(・・・)何かを読むに値するかあるいは値しないかを決めるような認知可能な言語的特性の基準など存在しないということだ。(・・・)解釈が事実を生むのであって、その逆ではない。” P62
“認識論的構築主義一般は、世界を解釈の産物としてみているのだが、それゆえに容易に懐疑論へと転んでしいまうことがある。そうなるとフィッシュとともに「わたしたちが知っているのは、世界そのものではなく、世界についての物語群である」と信ずることが可能になる。(・・・)つまりこの考え方では語や概念は、わたしたち自身と現実との間に介入する物であるということになるが、これはわたしの身体が、わたしと世界との接触を妨害するものであると考えるに等しいまちがいである。” P67
”文学作品を、きわめて綿密な注意を払って読まれるよう要求するものとして定義することはできない。なぜなら同じことは、死刑命令書を読むときについてもいえるからだ。(・・・)すべての文学作品が、この種の注目を要求しているわけでもない。” P78-79