閉じる

新・読書日記198(読書日記1538)

      秋元康隆『いまを生きるカント倫理学』集英社新書(2022)

■株式会社集英社

公式HP:https://www.shueisha.co.jp/

公式X(集英社新書編集部)(旧 Twitter):https://twitter.com/Shueishashinsho?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

日記

これまでカントに関する本をいろいろと読み漁ってきたが、前期カント、後期カントと分ける人がいて、実際のところそうらしい。

「ルソー体験」といって、ルソーの『エミール』によって影響を受けたカントは、差別・偏見に対する考えを改めたのだという。

カントでさえも若いころの考えを、誰かの思考に触れることで改めるくらいなので、人は常に変化するものだとしみじみ思った。

カント倫理学は「今は通用しない」というのがその界隈の常識だということは自分もいろいろと察してきたところではあるが、だからといってカント倫理学を学ぶ意義までもはく奪されてしまったとはふつうは考えない。

ということで、謙虚な気持ちで今まで避けていた新書というものをもう一度読んでみる気になった。

  

“あらゆる可能な行為について、それが正しいか、正しくないかを知ることは必ずしも絶対に必要なことではない。しかし、私がなそうとしている行為は、私はそれが不正でないことを判断し、思念しなければならないだけでなく、それをまた確信もしなければならない。”P19

  

功利主義の欠点のひとつとして、帰結を完全に予測可能でなければならないというのが挙げられると思うが、カントの考える「義務」の欠陥は「(それが)正しくないかどうか知ることは必ずしも絶対に必要なことではない」だ。

著者はこの思想が植松死刑囚に当てはまると語る。

ただ、カントがそのことを考えないはずはない。

“従って、その信仰が要求したり、許容したりする事物が不正であるかもしれないという可能性がある場合に、それに従うのは、つまり、それ自身で確実な人間の義務を毀損する危険を冒してまでそれに従うのは、無良心的である。” P206

  

・・・

非合理な選択の合理的な結果を選ぶか。合理的な選択の非合理な結果を受け入れるか。

功利主義を自分があまり好かないのは、自然法則、人間法則を完全に予測しようとして行動する打算的な考えがそこに潜んでいるからだ。

自分からすればカントの義務論がよほど人間的なように思える。

本書を読んでもなおそう思えたし、これからもカントからいろいろと学びたいと思う。

つづく

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。必須項目には印がついています *

© 2024 ラボ読書梟 | WordPress テーマ: CrestaProject の Annina Free