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新・読書日記231(読書日記1571)

スティーブン・ピンカー『暴力の人類史 上』青土社(2015)

菅原寧格『価値相対主義問題とは何か』信山社(2022)

サラ・ベイクウェル『実存主義者のカフェにて――自由と存在とアプリコットカクテルを』紀伊國屋書店(2024)

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■株式会社青土社

公式HP:http://www.seidosha.co.jp/

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/seidosha?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

■信山社出版株式会社

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公式X:不明

■株式会社紀伊國屋書店

公式HP:https://www.kinokuniya.co.jp/

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日記

アウトプットが追い付かなくなってしまったので今日も手短にして明日可能であれば一昨日と今日書ききれない分を書きたい。

今日はひとまずこの三冊をメインに読んだ。

日曜日にしてはかなり時間をかけたほうで、とくに『実存主義者のカフェにて――自由と存在とアプリコットカクテルを』は200ページくらいまでは読み進めた。

夜の帰り道には、昨日考えたことの延長戦を行った。

一応のところ決着をつけた。まずそこから書き出してみたい。

  

・・・

職場で理不尽なトラブルがあった。

詳細に書くのは怖いので、内容よりも本質だけを書きたい。

 

昨日の時点では、推論能力が「人格≒(性格)」をある程度決めるのではないかというところまで考えた。

それに対し、今日は推論能力と人格の間に「認識能力」があると自分は考えた。

昔、部活で「アンテナをもっと張れ」と注意されたことを記憶している。これは認識に関係する話しなので例に出す。

人は分からないことは分からない。当たり前である。これは「何を質問していいのかが分からない」に似ている、というよりも同じである。

アンテナを張るということは知識を身に付け、そのことを意識し、認識できる範囲を広げることである。

つまり、事実に対して働く推論は、この認識の過程を経たあとに始まると言える。

昨日は事実⇒推論だと短絡的に考えたが、事実⇒認識⇒推論が正しいと今では考えている。

  

・・・

どんなトラブルがあったかは書けないが、自分は、相手が認識能力(判断力)が欠如しているのではないかと考えた。

20分くらい歩きながら考えた結論だ。

くどいが、詳細は書けない。

ギリギリ書けるのは、この話は「合理的配慮」と「わがまま」の境界線のことについてである。

自分はこの事件(?)をきっかけに、合理的配慮についていろいろと思いをめぐらせた。

合理的配慮は、精神的な障害の人に限っては、障害によって回避することのできない事象に対してまわりが配慮することだと自分は考えている。

ただ、障害にもよるが、判断能力を備えた人間が要求するのは合理的配慮ではなく「わがまま」の性質を帯びたものであったりする。

   

・・・

ヤスパースは心理学の限界を感じたそうで、そこから現象学関心が移ったと書かれていた。

自分もそれをよく感じる。心理学は表面的なことを扱いがちにみえる。

臨床心理学は実用性があるが、やはり限界もある。

ある精神疾患を持った人に対して自分はどう接するべきか。何を配慮するべきか。

実務的なことが絡むといかに心理学が無能であるかが分かるものである。

こういうことを前にしては哲学が一定の補助的な役割を果たしうると自分は考えている。

だから今日も明日も、人生は読書読書読書なのである。

つづく

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