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新・読書日記244(読書日記1584)

   

べッセル・ヴァン・デア・コーク『身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法』紀伊國屋書店(2016)

ツヴェタン・トドロフ『われわれと他者 〈新装版〉: フランス思想における他者像』法政大学出版局(2015)

森本あんり『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』岩波書店(2024)

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■株式会社岩波書店

公式HP:https://www.iwanami.co.jp/

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■一般財団法人 法政大学出版局

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■株式会社紀伊國屋書店

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日記

職業柄、適応障害というものを考えざるを得ない。

自分の理解では、この病名は職場にうまく適応できなかったからがゆえに体調に不具合が生じ、結果的に一定期間の休養を必要とする人たちに与えられる名称であって、障害ではない。

適応の「障害」というのは実態からかけ離れた名称であって、その背景というのは非常に複雑であり、多様である。そのことを日々の業務で感じる。

あまりに複雑であり、現場の人間には理解されていないことも多々あり、福祉と謳いながらも公共性、包括性というものを感じない自分に多少の葛藤を感じるときもある。

  

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『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』

メモ

イギリスで少数のピューリタンがアメリカへわたり、先住民を迫害した歴史の事実と全共闘について語る著者

“「学生時代には全共闘で鳴らしていた人が。卒業して社会人となり、大企業の重役や政府の要職に就いたような状況」”P134

  

『神の痛みの神学』⇒世界でもっとも読まれた日本発の神学書

  

カール・バルトの言葉(弁証法神学について)

“「われわれは、神学者として神について語らねばならない。しかしわれわれは人間であるから、神について語ることはできない。われわれは、この当為と不可能の両方を知り、それによって神に栄光を帰さねばならない。」” P157

  

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『われわれと他者 〈新装版〉: フランス思想における他者像』

メモ

トドロフに影響を与えた人物

⇒レオ・シュトラウス、カール・ポパー、マックス・ウェーバー、レイモン・アロン、ルイ・デュモン

  

“普遍主義の立場というものは複数の形態をとって現れうる。自民族中心主義はその筆頭に掲げられるだろう。というのも、自民族中心主義は普遍主義の複数の形態のうちもっともありふれたものだからである。” P18

  

“普遍主義者はあまりにたやすく自己認識できない自民族中心主義者になってしまう。” P30

  

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『身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法』

“一群の若手研究者たちが、トラウマを負った人々は現実の危険が過ぎ去ってずっとあとになっても大量のストレスホルモンを分泌し続けることを、揃って発見していた。” P58

⇒ ≒非合理的な事実の解釈によって解釈不安がずっと続く状態

  

“「強烈な情動は苦痛を遮断しうる」” P65(ヘンリー・K・ピーチャー)

  

・著者が挙げる薬の欠点

“精神的な問題を脳の疾患と捉える脳疾患モデルは、人々の運命の主導権を本人の手から奪い取り、彼らの問題の解決を意志と保険会社に委ねる。” P69

  

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読みながら「報われない人はそのまま放置されるべきでなく、支援することによって報われるべきか?」という福祉の観点からの問題提起を自分なりに行ってみた。

素行の悪い人はだいたい程度の差はあれどどこの職場にもいる。

しかし、本当に本人に全ての責任があるのかと自分は問わずにはいられない。マイケル・サンデル『実力も運のうち』や小坂井氏の『責任という虚構』、『格差という虚構』などに自分は影響されて今の考えに至っている。

  

この問いには二つの想定が必要になる。

報われるべきだとして、それは、無条件なのか、それとも条件付きなのか。

前者の立場をとると自分は平等主義者になると考えた。

それが病的になると共産主義的な発想になる。これはまいったと思いながら、であれば条件付きにならざるを得ないと考えた。

すると、では報われるための条件とはなにかという、あまりに漠然とした問いにぶつかる。

責任という概念、自由意志という概念、義務という概念、これらを今一度整理しなければこの難しい問いに答えることはできない。

  

・・・

平等主義にやや懐疑的になり始めた自分のなかの思想的矛盾が気にかかりはじめた。

考えた結果、矛盾には二種類あると分かった。

・「世の中に絶対はない」という、論理的な矛盾。(絶対はないという命題は絶対に正しいという論理的矛盾)

・「〇〇は絶対に正しい」という信念が本人のなかに何種類かある時。Aも絶対正しいがBも絶対に正しいと考えるとき、かつAとBが論理的に両立しない場合。

  

自分は後者に賭けてみたい。

両立しない考えがぶつかり合うことで強力な信念Cが生まれるのではないか。それが弁証法というものだろう。

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