H.D.ソロー『市民の反抗 他五篇』岩波文庫(1997)
ジャック・ロンドン『マーティン・イーデン』白水社(2022)
べッセル・ヴァン・デア・コーク『身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法』紀伊國屋書店(2016)
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■株式会社岩波書店
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日記(『マーティン・イーデン』のネタバレあり)
そろそろ自分でまとまった文章を書いてみたいと思うようになる。
小説とは違うが論文でもないので、どちらかといえばエッセイのようなものにしたい。
また、どのページからでも読めるようにし、かつどのページも深く、考えさせる内容にしたい。
タイトルはいくつか考えている。『逆説の書』、『条件の書』。
はてなブログのほうに蓄積した、自らの思索を詰め込んだ3000ほどの記事を統合してみたいという意欲がある。
『マーティン・イーデン』はほとんど完成された、優れた文学書だと自分はみなしているが、学問の細部までは語られていない。そこまで書いたら小説としては成立しなくなるからだろう。
この小説に知的冒険の細部まで語られたならば、それこそ言葉にならないくらいの、どこを読んでいても常に新鮮で、刺激に溢れ、考えることの面白さを実感させる本になるかもしれないと自分は思っている。
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『身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法』
メモ
“(・・・)それまでは説明できなかった心の多くの側面が、ミラーニューロンで説明できることがほどなく明らかになった。ある書き手はミラーニューロンのことを「神経Wi-Fi」と呼んだ。私たちは他者の動きだけではなく、他者の情動的な状態や意図までも捕捉するのだ。” P99
“さしあたりは、情動と理性が対立するものではないことを強調しておきたい。情動は経験に価値を割り当てるので理性の土台と言える。自己の経験は、理性脳と情動脳の均衡から生まれる。これら二つのシステムが均衡していると、私たちは「本来の自分である気がする」。だが、生命がかかっているときには、両システムはかなり独立して機能しうる。” P107
⇒『なぜ社会は左と右に分かれるのか』と相反(?)
“PTSDの人は、門が全開になっている。フィルターがないので、彼らはたえず感覚過負荷の状態にある。” P118
(ライナー・マリア・リルケの言葉)
“胸の内で未解決になっているもののいっさいに対して寛容になり、問題そのものを愛するようになりなさい。……今、それらの問題を生きるのだ。ことによると、あなたは生きているうちにだんだんと、気づかぬまま、いつか遠い日に答えにたどり着くかもしれないから。” P145
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『市民の反抗 他五篇』
“金をかせぐ手段は、ほとんど例外なく人間を堕落させる。(・・・)著述家あるいは講演者として金をかせぎたいと思えば、まず人気を得なくてはならず、そのことが当人をまっしぐらに堕落させる。地域社会がよろこんで報酬を支払う公的な仕事にしても、いざひき受けるとなると、不愉快きわまるものばかりだ。ひとが人間以下に身を落とすことに対して、賃金が支払われるからである。” P213
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『マーティン・イーデン』
ルースとの訣別を促す手紙が届く。やっとここまで進んだかと。
二周目をちまちま読み進めたが、塵も積もって最終章に突入。
パワフルな絶望、前向きな自滅が今はじまろうとしている。
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『市民的反抗』が想像以上に面白い本だった。しかしそのとき既に時は夜の9時で、もう読める集中力がほとんど残っていなかった。
明日は続きをどんどん読んでいこうと思う。
『身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法』については、自分が気が付かなかった点が少しずつ明らかになってきた。
それと同時に限界も少しずつ明らかになってきた。常に例外というものは存在する。PTSDになりにくい人、そうでない人の差というものはどうやら遺伝子がある程度は関係しているということみたいである。
しかし、「環境決定論/遺伝子決定論」の二分法は小坂井氏が『格差という虚構』で指摘しているように学問的には不可能に近い。
結局ブラックボックスに委ねられるのか。自分は障がい者福祉という現場で何ができるのか。
問いかけは終わることがない。