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感想
帯には「ヨーロッパの人種差別観」だとか、サブタイトルには「西欧ヒューマニズムの限界」だとか書かれているが、読み終わって感じたのは別のことであった。
端的に書くと、最近の本はかなり表現の自由が制限されているのではないかということである。放送禁止用語が増えたように、書籍のなかでも「書いても大丈夫な表現」と「書いてはいけない表現」というものが絶対にある。著者は敢えて炎上を狙って後者を取ることがあるかもしれないが、学者のような、権威を失うと職を失いかねない人たちは慎重に書かざるを得ないのではないだろうか。自分はそれを強く感じた。『夏日烈烈』のなかで佐堀さんが言っていたように、50年以上前に書かれた書物を読むという事はこのことを鑑みると尚更説得力を持つように自分は感じる。
最近の本なんだか解毒されたような貧弱な文章が目立つ。自分はもうそういった本を買うつもりはないが、昔は良く読んでいたように思う。
ところがやはりどこかで限界を感じたのかもしれない。なんだか建前が目立つ現代の書物にうんざりしたのか、ハッキリものを書いている古典に向かっていくのは必然的な流れだったのかもしれない。ふりかえるとそんなことが思い浮かんでくる。
背景としては書物が売れなくなっているということ、本書の批判の対象であるヒューマニズムが台頭していること、あらゆる要素が複雑に掛け合わさって現代のようなオブラートに包まれ、かつ禁止ワードを排除(げつまりは解毒)された本が目立つようになったのかもしれない。そういう意味では確かに「ヒューマニズムの限界」としてはそういったことが一つ挙がってくるのかもしれない。(筆者はそういったことを批判の対象としているわけではないが、結果論的にこういうことも批判の対象となり得る時代となったのかもしれない)
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メモ
昭和初期の時点で日本人は既に高い技術力を持っていたことは現場にいたイギリス人にも伝わっていた
“日本兵の能力はインド人やビルマ人労働者の七、八倍であり、技術もすばらしい” P131
“しかし私たちの精神的な気概、たとえばイギリス兵に対する態度や民族的自覚などは残念ながら情けないかぎりであった。” P132
⇒ヨーロッパにはいったん自分がとった行動には、どんなことがあってもその責任はなくならないとする考え方があると筆者は書いている。また、英米は自らが正しいと考えて戦争を行ったと書いてあった。対照的に、日本人はそういった意識が弱いのではないかということを筆者は書いていた。それが日本人の弱さだという主旨だと思われる。
・戦場では職業にかかわらず、ただ実践的な人間だけが重宝される
“人間の才能にはいろいろな型があるのだろう。その才能を発揮させる条件はまた種々あるのだろう。ところが、現在のわれわれの社会が、発掘し、発揮させる才能は、ごく限られたものにすぎないのではなかろうか。多くの人は、才能があっても、それを発揮できる機会を持ち得ず、才能を埋もれさせたまま死んでゆくのだろう。人間の価値など、その人がその時代に適応的だったかどうかに過ぎないのではないか。(・・・)その人の本当の価値を知っているのは、いや、知り得る特権を持っているのは、かつての戦友仲間だけかもしれない。” P212-213
このくだりを読んで思い出すことがあった。大学の講義で「本当の友とは戦友だけである」といったことをM教授が言っていた。ああ、たしかにそうだなと思い出すのであった。
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『ジャックリゴー遺稿集』
(アンドレ・ブルトンの言葉)
“私は幸福に身を捧げようとは少しも思わない。プラグマティズムは私の手許にはない。何か信仰のなかに慰めを求めることは卑俗に思われる。精神の苦痛に対して療法を考えるのは恥ずべきことだ。自殺すること、私にはこのことも、ただ一つの場合を除いて、正当であるとは思えない。つまり突きつけるべき挑戦状としてこの世界に<欲望>以外のものを持たず、受け入れる挑戦の相手として死以上に大きなものがない場合にのみ、私は死を欲望するところまで行けるのである。” P206
(ジャック=エミール・ブランシュの言葉)
“道徳観念がリゴーを苦しめた。彼は最も真面目で良心的な青年だった。その良心の過剰のせいで彼は死んだのだ。” P159
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『正義のフロンティア』
“私たちが器質的損傷のある人びとを尊重し包摂することを選択するのは、そうすること自体が善いことだからであり、経済効率がよいか否かとは関係ない。” P141
⇒何が包摂なのか?機会の平等なのか、支援にまで及ぶことなのか、給付といった援助にまで及ぶことなのか
“重度の損傷のある人びとの利害関心が後になって考慮されることになるのは、実のところ慈善からであって、基本的正義にあるものではない。” P144
(持論・感想)運命論者の欠点・・・運命を大事にするという考えは思考停止を招く恐れがある⇒何事も悪くないので問題はないという回答を許容するからである
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『対談集 岡本太郎 発言!』
メモ
“一般的な自己疎外的な状況から、どういう方法によって生活上の自由、生きがいを感じうるか、殻を破って、それでも生きていた、生きたという実感を人間的にかち得るか、生活者がですよ、どうも明確な答えが出ないのだけれども。(・・・)おれはおれでやっているのだから、おれは現在のいわゆる日本という惰性的な社会に対して自分の好き勝手なことを言い、戦い、自分で充実感を味わって、さらに危険をおかして何かやりたいという情熱で一ぱいなんで。” P150-151
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『正義のフロンティア』を読んで障害福祉、社会福祉についていろいろと思いをめぐらせる一日であった。
現場での課題はハッキリいって気が滅入るほど山積みである。
自分は明日からも変わらずひとつひとつクリアにしていきたい。