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日記
さすがに三連休目は残業の疲れが取れてきたように感じた。今日の集中力は土日月のなかで最高レヴェルだったと自覚できるくらいに頭がさえた。休息の大切さを改めて痛感。
9連休と3連休の12日間でかなりの時間を読書に割くことが出来たように思う。
お決まりの文句であるが、人生楽しいときもあるが辛い時もある。これは読書も同じで、書いていることが分からなかったり、そこまで乗り気でなかったり、体調が悪かったとき、いろいろとあるが、それでもここまでやり通せばつらいを通り越してスッキリしてくる。これを得たいがために読書をしている節もあるかもしれない。
『脱人間論』
メモ
“人類史を見ればこの苦しみに負け、虚無に陥る人もいたし、自殺した人もいた。また、この戦いが全く意味がないと思う人もいた。古くから快楽主義者もいれば虚無主義者もいた。そして、人生自体を降りてしまう人間も数えきれないほどいたのだ。しかし、その虚無で自殺した人や、負けた人は可哀想で、そのように傷ついた人が正しいと言ったら、もう人間の文明は終わっていただろう。虚無に陥って自殺してしまったら、それは自殺した人間が悪い。デンマークの実存哲学者のゼーレン・キルケゴールはその『現代の批判』の中で、「現代は本質的に分別の時代であり、反省の時代であり、情熱のない時代であり、束の間の感激に沸き立つことがあっても、やがて抜け目なく無感動の状態におさまってしまうといった時代である・・・・・・自殺者でさえ、今日では絶望して自分に結末をつけるのではない。むしろ現代の自殺者は、この自殺という行為について実に長いあいだ熟慮に熟慮をかさね・・・・・・ついに思慮分別に窒息してしまうのである。だから、そのような人間をほんとうの自殺者と呼べるかさえ疑問だといっていい」と、すでに十九世紀に述べている。” P102
“哲学者で仏文学者の森有正はいつでも、人間とは愚かだからこそ人間なのだと言っていた。(・・・)その森有正が言っていたことで、いまも忘れられないのは、「その愚かなものを信じ切っていた文明が、世界を制覇したのだ」ということである。それに引き替え、どちらかと言えば東洋を支配していた「道徳」、つまり「儒教」は現世肯定が強い。(・・・)アフリカなどの植民地化された部族社会もそうで、皆、道徳や礼儀にすごくうるさかった。そういうことばかり言っていたところは、ほとんどが植民地支配を受けた国になった。” P108
『ヨーロッパの日記』
(カゾホン)
“「ああ、神よ、あなただけは知っておられる、わたしがこよなく心に懸けている学問がなんであるかを。文学に身も心もゆだねたいという燃えるような願いが久しい以前から私を突き動かしている。なぜならいっさいの真理は文学のなかにのみ宿っているからだ。この真理のみが不滅である。これのみが神と合一する。」” P57
“「わたし自信がわたしの書物の対象である」と一五八〇年のミシェル・ド・モンテーニュは『随想録』の序文に書いた。(・・・)おのが経験を古典古代の叡智と「対決させる」この人文主義者の愛読書はセネカとプルタルコスである。” P58-59
・・・
今日のいくつかの思考の断片をここに記す。
埴谷雄高の「自同律の不快」について
言語哲学や論理学を読んでいると、その学問が「感情」や「心」といかに相性が悪いのかを感じさせられる。
『下半身の論理学』という本、これは少子高齢化の本質を分析哲学から解明するという斬新な本であった。
しかし同時に不快感を覚える。感情を論理で理解することなど可能なのか?
また、恋愛における様々なドラマを生物学のなかで単なる生物の「現象」に還元されていくことに不快を感じる。
これが感情と論理のパラドックスなのかもしれない。
『本、そして人』を読んで思ったこと。
療養中の50代の人たちが「やることがない」と、社会から疎外されて退屈で死にたい人が少なくないことが書かれていた。
しかし。
それは裏を返せば精神の貧困さを意味しはしないか。精神はいつでも自由であり豊かである。そこに物理的な条件は関係ないはずである。ジョン・ミルトンはその極致かもしれない。彼は失明のなか、口語筆記で『失楽園』を書いたと言われている。
池田晶子は考えることは生きること、それが生きがいだ、みたいなことを書いていた。
見事に彼らと対極の位置にある。
精神の貧困が退屈を生むのか。退屈が精神の貧困を生むのか。自分は前者であるとしか思えないのあった。