新・読書日記417(読書日記1757)
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日記
帰宅後、メルカリの発送のため自転車に乗った。久しぶりのチャリだ。走る。するとスマホを見ながら歩いている人間がそこらじゅうにいた。これはカオスだと思った。ちょっと舐めすぎではないか、と。いっそ体当たりしてやろうかと密かに思ったが、さすがにそんなことはしない。ただ、体当たりしようと思えば確実にスマホ人間はやられてしまう。自分はあまりに驚異に感じたのでちょっと考えてみた。なぜこうなっているのか。
結論、法さえ犯さなければ何してもいいという発想がどこか頭の片隅にあるのではないかと思わずにはいられなかった。突飛な発想だろうか。まあ夜だから多少は論理が飛躍するかもしれない。ただ、自分は少々の怒りを覚えた。車が歩行者を気遣うように、自転車運転手が歩行者を気遣うのは義務だ。だからといって、では歩行者は何をしてもよいのか。暇だったので割と自分は真剣に考えた。
宮台真司のいう「法の奴隷」はこのことか、と自分は実感した。
一応、定義を書いておく。
“法の奴隷とは、複雑な社会生活を回すために本来便宜上設けられているだけのルールや制度に縛られて思考停止に陥り、自律的な判断力を失った存在。” P16(宮台真司/おおたとしまさ『子どもを森へ帰せ』集英社 2024)
考えるのは面倒くさいから、配慮するのはだるいからとりあえず最低限法だけは守ればいいという考えが透けて見える。でなければ、自転車もバンバン走る歩道(今回は自転車専用道路と自転車専用道路のあいだの空白地帯)でどうどうとスマホをいじるはずはない。
違う視点をあげると、彼らは運にまかせている。彼らは見逃していることがある。法を犯さなければいいという発想には、不注意による事故を減らそうという発想がない。事故は往々にして彼等のような人間が鉢合わせた場合に発生する。不注意であることは、換言すれば運に任せること。責任を運に受け渡すことに他ならない。自転車にぶつけられたらそれは彼らにとっては「相手が悪かった」のであり「運が悪かった」ことになるのだ。だから彼等には自律的な判断能力がない、ゆえに「法の奴隷」。以上。
・・・
ちょっと暗いネチネチしたことを書いてしまった。
終わりよければ全てよし、最後はポジティブなことを書こうと思う。
今日の体力、集中力は凄まじかった。自分でも驚いている。7時間しか寝ていない。いや、実は自分には7時間が最適であって、それ以上寝ると逆効果になるのかもしれない。
ちょうど目が覚めた時には、アラームがなる1分前だった。祝日で疲れも多少とれている。とにかく体力がありあまっており、残った大量の仕事もさばきまくった。帰宅後にメルカリの発送に行く元気も余裕であった。
こうして文章に書く気力も残っている。未来に自分の集中力の波などをふりかえるときのために一応記録しておきたかった。
本の感想を書くのを忘れた。カントの本はわかりやすく、かつ簡単すぎずところどころ深い。よいカント研究者が出て来たなと思うくらいである。
カントはわりと人間味がある。理論だけでみるならば。欲求・欲望があって、当たり前。むしろそれといかに付き合うかが理論の前提になっている。カントのような哲学は理論だけが目立つが、倫理こそ実践に生かすべき学問ではないか。すばらしい。
つづく
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