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新・読書日記424(読書日記1764)

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日記

あらゆる批判のなかには少なからず一定の真実が含まれていると自分は思っている。精神障害者への批判も然り。ただ、この読書日記を精神疾患の当事者が見ている可能性もあるので予め書いておきたいのは、批判と非難の区別についてのことである。非難はただの罵詈雑言であって無視すべきもの、排斥すべきものとして認識すべきものであるが、批判は排斥すべきものとは言えない。批判された側は苦しいかもしれないが、本来の人間の在り方としては、むしろ批判は受け入れるべきものだと言える。批判を排斥することは人間性を排斥することに近い。批判を通して人は自分の負の点に初めてきがつくことができ、批判を通して建設的な方向へ向かうことが可能となる。現代は、批判をパワハラにすり替えて排斥すべきものとして扱っている節が少なくない。現場でもこのようなすり替えを自分は見て来た。だから敢えて細かく書いてみた。ということで、続きに入りたい。まず、いきなり話が大きくなってしまうが、そもそも、人類学的に見れば精神疾患というものは近代に生まれた概念だと言えやしないだろうか。つまり、ざっくり雑に単純化すれば、社会において「役に立つ/役に立たない」の二分が成立することによって初めて精神疾患の概念が発生すると言える。人間が生産性の観点から評価・承認されていくようになったのは、人が己の欲求・欲望に従って生産行為に勤しめば「神の見えざる手」によって自ずと経済はまわると提唱したアダム・スミス以降の近代だと考えれば、精神疾患の概念は経済と密接に結びついていることが言える。精神疾患を考えるときに、自分はこの前提は忘れてはいけないと今は考えている。今はというのは、来月、もしくは来年には考えが変わるかもしれないのでそういう表現をしている。「働けない」というのは、この生産行為の量と質が、平均的な人間におけるそれとわずかに低いか、あるいは著しく低いかを意味するものと自分は考える。たぶん分かり切ったことかもしれないが、あえて言語化してみようと思った次第である。だから、「働けない」の意味は「働かない」ではなく、「働ける」けれども、生産性が同時代人よりも相対的には低いという意味での「働けない」を意味する。そして、生活保護の人や精神疾患の人に向けてなされる批判というものは、往々にしてこの「働けない」をめぐっての認識のずれだと言える。ここまで書いて、ようやく今日自分が感じたこと、書いてみようと思ったことを書ける段にきた。

哲学的に、「何もしない」という行為は存在しないと自分は思っている。何もしない行為は「無」、つまり存在しないことを意味するのではないか。そう考えると、精神疾患を抱える人(うつ病等)は休養中に「何もしない」でいることはできるとは言えない。何が言いたいのかというと、というか、まあこのことを書こうと思えば本一冊くらいにはなってしまうので省略しながら、うまく要約しながら書かないといけないのではあるが、うつ病等の人が日々仕事をしないでいる時間に何をしているのかということがどうしても自分の中で気にかかるところではある。というのも、「眠れない」とよく当事者は言うのであるが、「それは眠る必要性が身体から求められていない」からであるというのは当たり前じゃないか、と思ってしまうである。なにも、運動しようとか、勉強をしようとか、そういうことを言いたいのではない。眠れたら苦労はしないという声が聞こえてくる。それはわかるようでわからない。他者に対してこれからも理解に努めなければならないが、眠れない原因を自分で作っていしまっているからこそその泥沼にはまっているという自覚を当事者が持つことが出来たら、自分は精神疾患の人のQOLだとか人生の意味だとか幸福度だとか、そういうものがプラスに転じると確信している。だから長い前置きを書いたうえでこのことについて書いてみようと思ったのである。眠れないというのは、裏を返せば一日をどぶに捨てたに等しい。なぜならば、人は、否、全生物はサインカーブ、コサインカーブのように、活動と睡眠の永久運動によって生が営まれるからである。これが生物の存在様式なのである。だから、眠れないという人は、その原因を自分なりに突き詰めない限り、自分は永遠にその人の生は無意味なものとなってしまうのではないかと思っている。こういうことは直接かけることではないから、敢えて前置きを詳細に書いて、ここまで読んでみようと思える人のみに向けて書いてみることにした。

   

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『本が語ること、語らせること』

メモ

(大学教員から評価をすることの意味について相談があり、それに対して著者の回答)

“今は社会全体に、「評価は客観的につけなければいけない」という暗示があまりに強くかかっている状況です。だからこそ、学生さんたちには「評価とは主観的なものでしかない」と繰り返し伝えてほしい。そのためには、なによりもあなた自身の中に「歴史学とは何か」という、ある意味とても「主観的な基準」を持つ必要があります。” P122

   

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『他者の苦痛へのまなざし』

戦争の写真は人々へその残酷さ、無意味さを直に伝え得る強力なメディアであった。しかし、スーザン・ソンタグも予想していなかったか、時代はAIによって写真を合成することが可能となってしまった。これによって写真の真実性が揺らぎ、フェイクだとみなされ、真実が偽となる可能性が高まる時代となってきた。だからといってスーザン・ソンタグのこの本の価値が貶められるわけではない。逆に、私たちはなんのためのAIなのかを問わなければならない。

読書ブログを通じて浮かび上がる小さな思索の断片を、これからも綴っていきたいと思います。

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