新・読書日記479(読書日記1819)
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日記
若い人に問いたい。貴方は自由か。自分も偉そうなことは言えないし書けないが、少なくともこの5年くらい、ある程度「自由」の本質には考えてきたつもりである。自負はある。今日はその自由という概念を再度アップデートすべくアイザイア・バーリン『自由論』を読み込んだ。そこで得られた知見、感想等をこれから書いていく。
その前に、3冊ほど自由について考えさせられる本を下にそのリンクを掲載しておきたい。
ちなみにカントに関する本を読む前に、池田晶子の本を貪り読みながら自由について考え続けていたのですんなり入るところはあった。『道徳形而上学の基礎づけ』を読んだとき「倫理」の意味するものは単に「善いこと」を指すものではないということを改めて実感した。
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『自由論』を購入してから仕事が忙しくなったのでしばらく積読になっていた。この本は『歴史とは何か』で有名なE・H・カーのバーリン批判に対する弁明から始まる。いきなり難解な文章が続いてくので40ページくらいで止まっていた。今日はいっきに100ぺージくらいまでは進めた。
メモ
“私は、「歴史の必然性」についてのエッセイのなかで、偏見とか不公平は何を意味するか、を扱おうと試みた。ここではただつぎのことを繰り返すことしかできない。われわれが主観的評価と客観的評価を区別するのは、そこに含まれている中心的な価値が、どの程度まで人類に共通する価値であるか、実際には大抵の場所と時代において大多数の人びとに共通する価値であるかどうか、によっているように思える、と。” P46
ここで自分は仮説を立てた。価値という言葉の本質とは。
それは「生物に備わっている感性の、各々の共通する普遍的感性を共有する一部が「善」とみなすもの」であると今日は考えてみた。
ようは、時代問わず、間主観性( ≒ 共通認識、あるいは共通前提)が善とするものの集合といえる。
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いったん岡本太郎の言葉を引用。
“芸術家なのになぜ民俗学をやったのか。私は現代社会の職能分化に反対だからだ。人間が絵描きであったり、小説家であったり、あるいは靴職人である、それだけだなんて卑しい。ひとはもっと全人間的で生きるべきだ。” P116
“意味なんかあるものか。わからんところがいいんだ。わかってしまっては頭になにも残らない。芸術ってのは判断を超えて、「なんだ、これは!」というものだけが本物なんだ。「ああ、いいですね」なんてのは「どうでもいいですね」ってことだよ。” P134
既製品に対する痛烈な批判、分業化に対する拒否反応がミシミシと伝わってきた。アダム・スミスに出会ったら間違いなく岡本太郎は喧嘩をふっかけるだろう。
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『自由論』にもどる。
“自由とは行為する機会であって行為それ自体ではなく、行動の可能性であって、フロムやフリックが考えているような、行動のダイナミックな実現では必ずしもない。” P63
“ただ私がここで繰り返しうることは、積極的自由の観念が反対物ーーー権威の物神化ーーーに転化することは現実に起こったし、それがながい間現代の最も見慣れた憂鬱な現象の一つとなっているということである。” P71
“もし、われわれが理性の光のなかで生きようとするなら、われわれは規則や原理に従わねばならない。これがまさに理性的であるということの意味である。理性的であるということは、われわれが信じている全般的なパターンをできるだけ妨げないような行動の方向をとることである。” P84
“自由の基本的な意味は、鎖からの、投獄からの、他人への隷属からの自由であり、これ以外の意味は、この意味の拡張か、さもなければ比喩である。” P85
“パターナリズムは人間をおとしめる政策であり、私には、何ら理性的・科学的基礎にもとづいているとは思えない。” P95
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自分にはバーリンが積極的自由の価値をあまり評価していないように読めた。少なくとも今日の段階ではバーリンが妥協的に、消極的自由のほうに価値を置いているように思えた。この考え方は岡本太郎にしてみればふざんけなということになるだろう。
池田晶子ならどう思うだろう?
カントならどう思うだろう?
と、そんなことを考えてもあまり意味がない気もするが、頭のいい人が陥りがちというか、超がつくくらいの合理主義は常々失敗している気がする。あまり偉そうに語れないが『啓蒙の弁証法』は理性の無力さを暴いた本だったと記憶している。
つまりーーー自由には犠牲が伴う。それがマクロでは世界大戦を召喚し、ミクロでは小競り合いを生み出す。それは、「価値」が何に依存するかにもよるかもしれない、いささか抽象的過ぎるがーーーやはり、理性ではコントロールできないくらいの、岡本太郎のような爆発するもの、宮台真司教授用語であれば「内発性」、執行草舟さんでいうと「崇高なもの」ーーーを自分も最高の価値だと思って居る、あるいは思いたいが、その価値を受け入れるならば、やはり自由は諸刃の剣として君臨してしまうということなのだ。
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