森本あんり『魂の教育』読了+新・読書日記481(読書日記1821)
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感想
ドイツ神学者ハルナックとバルトの対決を読んだ後『魂の教育』をしばらく読まずに放置していた。あるときふと、どうせなら最後まで読んでみようと思った。多分なにかに「アフォード」されて読んだのだと思う。自分の意志ではなくアフォードなのだと思う。で、そのアフォードのきっかけをつくったのはまさしく積読のおかげだと今は思える。積読の醍醐味は語り尽くせない。このような偶然も、因果を辿れば積読がどこかで間接的にかかわっているのだと思う。
メモ
“聖書は、「罪を犯すな」とは言わない。” P213
プラトンの言葉
“(・・・)勇気とは「何を恐れ何を敢えてするかについての知」” P214
“神はむしろ、存在自体であり、存在の力であり、すべtねお存在者を存在せしめている存在の根拠であり、すべての存在者がそれに依存しているところの存在の構造である。” P216
“救済とは。人が自分の人生を一つの物語として首尾よく解釈できるようになることである。” P256
“(・・・)よい本を読むということは、結局それらの本を通して自分を解釈する手立てを得る、ということなのだと思う。” P260
本の終末に向かうにつれて段々と著者の深みのある言葉が連なる。「解釈する手立てを得る」という言葉が深い。それは「人生の意味を得る」とは少し違うように思える。「人生の意味」という言葉からは、なにか自分の存在がいかに誰かに役に立ったのか、という「結果」に還元される傾向というか、匂いを感じる。そうではなく「解釈の手立て」というこの言葉、人生がどう傾こうが自分にとってはどのような意味を持てたのか、そこに焦点があてられる気がするし、文字通りそれが「救い」の手立てになるとも思う。
・・・
午後はジュードとリバタリアニズムの本を読んだ。ジュードは300ページを超えて、少しずつ物語が展開していく。展開はしていくが、現代にもありふれたような泥沼劇場の様相を呈していて、ちょっと苦いコーヒーのような、後味を感じさせられる。
『リバタリアニズム読本』は昨日考えた自由に関する一連の考察のつづきとして読んだ。
昨日自分が書いたとおり、やはり森村進氏も、バーリンは消極的自由のほうに価値を認めていると書いてあった。しかしエーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』のなかで、消極的自由(強制からの自由)は「自由という重荷」を背負うことで民衆に「不安」を与えることになり、結果的に全体主義に陥ってしまった一連の過程を批判している。フロムから言わせれば自律のほうが全体主義に陥ることはないだろうから、積極的自由のほうに価値を見出すべきだということなのだろう。この対立、なかなか面白いと思った。今の日本は「義務」という言葉が嫌いな人が多いだろうから、積極的自由はあまり受けが悪いと思う。その証拠というか根拠として、資産を蓄えて金銭的に自由になろう系の本が人気(本屋に行けば毎日この類の本がずらーっと並んでいる)ということがひとつとして挙げられる。
ところがどっこいで、今度はそちらに傾き過ぎると能力主義だとか、格差だとか、いろいろ次の問題につながっていく。考えればキリがないので、休憩。
つづく
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