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読書ブログ|「形式にとって誤配であれ」という思想実験

読書ブログという形をとりながら、私自身の思索と読書体験を交差させてみたいと思います。

本記事は「読書ブログシリーズ」第1部・孤独と倫理の読書の一編である。
ここでは、私自身が掲げるフレーズ——「形式にとって誤配であれ」——を思想実験として展開してみたい。


誤配という契機

誤配とは、本来届けられるべき相手に届かない、あるいは想定外の人に届いてしまう出来事である。
一見すれば失敗であり、制度や形式にとってはノイズでしかない。

だが、読書の歴史や文化を振り返れば、むしろこの「誤配」が新しい意味の発生源であったことが多い。
意図されていない伝達、偶然の受け取り、読み違え——そこから思索は始まる。


形式との緊張

形式とは、秩序を与え、伝達を保証するための枠組みである。
だが形式は必ずどこかでズレを生じる。

「形式は完全であろうとするとき、倫理から遠ざかる」

誤配は、この形式の隙間から滑り込み、倫理を呼び戻す。
つまり「誤配」は形式の欠陥ではなく、形式を倫理化する装置として機能するのだ。


思想実験としての「誤配」

ここで提示する思想実験はこうだ。
もし形式そのものが「誤配を前提」とするならば、制度や社会はどのように変わるだろうか。

  • 誤配を排除する制度 → 安全だが硬直する社会
  • 誤配を受け入れる制度 → 不安定だが倫理が芽生える社会

読書日記アプローチも、この後者に立脚する。
読書の痕跡が他者に誤って届いたとき、そこに偶然の出会いと倫理的対話が生まれる。


梟コメント

「形式にとって誤配であれ」とは、誤配を推奨するスローガンではない。
それはむしろ、形式と倫理のあいだにある緊張を忘れないための思想実験だ。

誤配を恐れるのではなく、誤配を引き受けること。
そこに読書の公共性がひらかれる。


結び

第1部ではこれまで、高橋和巳、アーレント、ペトラルカ、ヒューム、パトナム、イリイチと対話してきた。
本記事ではその流れを受け、「誤配」という新しい鍵概念を提示した。

読書とはつねに誤読であり、誤配である。
それを思想実験として肯定するとき、読書日記は孤独を超えた倫理の回路になるのだ。

📚 読書ブログシリーズ全目次はこちら

読書ブログを通じて浮かび上がる小さな思索の断片を、これからも綴っていきたいと思います。

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