読書ブログ|ズレる責任をめぐる読書エッセイ
この読書ブログ「読書梟」では、日々の読書を通じて考えたことを記録しています。
本を読むとき、私たちは必ず「ズレ」に直面する。
著者の意図と読者の解釈は一致しない。
時代背景と現在の感覚も重なりきらない。
この「ズレ」をどう引き受けるか――そこに読書の責任が宿る。
ズレの不可避性
- 読書は翻訳であり、誤読の連続である。
- 読者は必ず自分の文脈を持ち込み、テキストと摩擦を起こす。
- その摩擦を無視すれば、読書は単なる消費に堕する。
「ズレ」は回避すべき障害ではなく、むしろ読書の生成点である。
責任という問い
では、そのズレをどう扱うべきか。
著者に忠実であることが責任か。
それとも、自分の時代に引き寄せて再解釈することが責任か。
- 責任とは、正確さへの義務ではない。
- 責任とは、ズレを見ないふりせず、その意味を考え続ける態度である。
- 読書は、著者と自分と社会との三者関係において倫理化される。
読書エッセイとしての実践
私の「読書日記アプローチ」では、ズレの経験を隠さず書き残す。
「ここが理解できない」「違和感がある」――そうした部分にこそ、後で立ち戻る価値がある。
- 要旨ではなく「違和感」をメモする。
- 引用は「引っかかった箇所」を優先する。
- 違和感を物語化すれば、それ自体が小さなエッセイとなる。
読書は正しい理解を積み上げるだけではない。
むしろ、誤解や不一致を受け止めることで深まっていく。
梟コメント
ズレに出会うと、人は不安になる。
だが、その不安を押し殺すのではなく、書き留めること。
それが読書を「生きられた経験」へと変える鍵である。
責任とは、正解を持つことではなく、問いを持ち続けること。
そして問いは、ズレからしか生まれない。
結び
「ズレる責任」を自覚する読書とは、
- 誤解を認める勇気
- 違和感を抱え続ける粘り強さ
- 他者の声を自分に引き寄せすぎない節度
を求められる。
読書は、正しさの記録ではなく、ズレと責任の往復運動である。
そこにこそ、読書エッセイの真の倫理がひそんでいる。
読書ブログを通じて浮かび上がる小さな思索の断片を、これからも綴っていきたいと思います。
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