なぜ働いていると本が読めなくなるのかvsなぜ働くと本が読みたくなるのか 予告編
読書ブログという形をとりながら、私自身の思索と読書体験を交差させてみたいと思います。
──読書日記アプローチによる往復思考
1. 序:二つの声の対立
日常の働きのなかで、私たちは二つの相反する声に耳を傾けます。
- 「時間がなくて、本を読む余裕なんてない」
- 「だからこそ、本が読みたくてたまらない」
この矛盾は単なる気分の問題ではなく、労働と読書の関係に潜む構造的な緊張を示しています。読書日記アプローチでは、こうした矛盾を日記的断片として書き留め、そこから意味の円環を描くことを重視します。
2. 「読めなくなる」側の経験
- 時間的剥奪:労働は時間を細切れにし、まとまった読書の持続を許さない。
- 精神的消耗:仕事で使った思考力は、ページをめくる前に底を尽くす。
- 制度的規範:「役に立つ知識」への圧力が、無目的な読書を無駄と感じさせる。
ここでは読書は「奪われたもの」として立ち現れます。日記に書けば、それは「欠如の記録」となり、読むことのできなささえ読書の一部に組み込まれていくのです。
3. 「読みたくなる」側の経験
- 逃避としての読書:労働の重圧から逃れるオアシスとして本が光る。
- 反抗としての読書:効率と成果を強いる職場の言葉に抗い、自由な言葉へと向かう。
- 意味の補給:形式的なタスクの連続から、深い意味を補完するために本へ。
ここでは読書は「渇望」として現れます。日記に書けば、それは「欲望の記録」となり、読む前からすでに読書は始まっていることが可視化されます。
4. 円環の論理:読めなさが渇望を生む
「読めなさ」は「読みたさ」に転化し、「読みたさ」は「読めなさ」の痛みを前提にしています。
読書日記アプローチは、この円環を「誤配」として肯定します。すなわち、読めない日もまた読書の一部であり、働くことが読書を阻むと同時に駆動する。この循環こそが「読書日記」の本質的な舞台です。
5. 結語:読書は労働の影と光のあいだに
労働があるからこそ本は遠ざかり、同時に本は近づいてくる。
読書日記アプローチが示すのは、「読めない」も「読みたい」もともに記録され、意味を生むということです。働くことと読むことは、相互に阻害しつつ支え合う。矛盾こそが、日記という形式において記録可能な「読書の姿」なのです。
この記事もまた、読書梟の読書ブログの一ページとして積み重なっていきます。
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