ラボ読書梟

~読書梟の図書館へようこそ~

本を買った瞬間“読んだ気になる”のやめてもらっていいですか?

読書ブログという形をとりながら、私自身の思索と読書体験を交差させてみたいと思います。

本を買うという行為には、妙な達成感がある。
レジを通した瞬間、ページをめくる前から「自分、なんか成長した気がする」。
その小さな高揚感。
あれ、読む前に訪れる“知的カタルシス”とでも言うべきか。
実際、まだ何も読んでないのに、すでに「読書の成果」を感じてしまうのは、現代人の特技だと思う。
知識が血肉になるより早く、所有が自尊心を満たす

そして我々は今日も、買う。
「積ん読」こそがリテラシーの証、みたいな顔をして。
だが正直に言おう。積ん読は読書ではなく、自己演出の墓標である。
自分の知的な理想像を棚に並べて、“いつか読む予定の人間”を演じている。
それはたぶん、読むという行為よりも、「読もうとしている自分」を見せたい欲求だ。
つまり、知識の内容より、知識への態度が評価される社会になってしまったということ。

今の時代、知識は“消費の対象”になった。
SNSでは「何を読んだか」がアイデンティティを構築し、
Amazonの購入履歴が自分の人格の延長線にある。
「この本、気になってて」──そう呟く瞬間、
実はもう“読む”より“語る”ための準備が始まっている。
言葉は、経験を前借りする。
本を買った瞬間、私たちは“未来の知的会話”を予約しているのだ。

もちろん、読むこと自体が目的なら、こんな面倒はない。
けれど今の社会では、「読むこと」よりも「読んでる感じ」が価値を持つ。
それは本だけじゃない。
旅も、食事も、恋愛も、すべて“語れる形”に変換される。
だから読書もまた、語り得る行為としてデザインされている
その証拠に、「どこで買ったか」「どんな装丁か」「誰の推薦か」が、内容より先に語られる。
書店の空間が“知的スタバ”になり、
紙の匂いが“自己演出の香水”になっていく。

けれど、ここにあるのは単なる虚栄ではない。
それは誠実な時代の不器用な自己防衛でもある。
読むための時間が奪われ、集中力は分断され、
「本を読む自分」になること自体が特権化されてしまった。
つまり、読むより前に、読書家である必要があるのだ。
その滑稽な逆転が、「買っただけで読んだ気になる」現象を生む。

それにしても、この“読んだ気になる”感覚はなぜこんなに甘美なのだろう。
新品の本を手に取った瞬間、インクの匂いとともに立ち上がる、
あの“もう少しマシな自分”の幻。
それは、努力ゼロの進化、瞬間的な悟り。
手に取るだけで、知が降りてくるような気がしてしまう。
情報過多の時代において、読書は最後の信仰行為だからだ。
人は、読むことで救われたい。
そして、読まなくても「読む人間である」という信仰にすがる。

だが、信仰には儀式が必要だ。
現代の儀式は“購入”だ。
購入が読書を代行し、
所有が経験を肩代わりする。
この構造こそ、資本主義のもっとも洗練された魔法である。
「読む」という手間のかかる行為を、「買う」という行為に変換してくれる。
読むには数時間かかるが、買うのは数秒で済む。
そしてその一瞬で、「私は知っている人間だ」という幻想が完成する。
時間を短縮した分だけ、誠実さが薄まる

だが、この社会批評を他人事にしてはいけない。
私自身、Amazonの「おすすめ」欄をスクロールしているとき、
何かに赦されるような気分になる。
“読む前の充足”を、あらかじめ受け取っている。
もはや読書は“行為”ではなく、“気分の維持装置”になった。
退屈を紛らわせ、知的な輪郭を保つためのプロップ(小道具)。
つまり、本を読むことより、「読書家であり続けること」が目的化したのだ。

この構造を見抜いても、誰も完全には逃れられない。
なぜなら“読む”ことより“買う”ことのほうが圧倒的に簡単だから。
努力の代替としての消費、それが資本主義の最大の快楽装置だ。
そして私たちは、快楽を倫理にすり替えるのがうまい。
「本は文化への投資」「積ん読も読書のうち」「知のストック」──
全部、罪悪感の緩衝材である。
でも、そう言っているあいだに、
机の上の積ん読タワーは、まるで未履行の誠意のように高くなっていく。

それでも、人は本を買う。
なぜか。
本を買うという行為には、まだわずかに希望が残っているからだ。
その希望とは、「読む可能性がある自分」への賭けである。
読む時間がなくても、読む気力がなくても、
それでもいつか読むかもしれないという、誠実な遅延
つまり、買うことは“未来の自分への手紙”でもある。
「お前、まだ読めるか?」という。
そして未来の自分が返事をくれなくても、
その手紙を出し続ける行為こそ、読書のもう一つのかたちだ。

そう考えると、“読んだ気になる”という錯覚は、完全に悪ではない。
それは、読むことが困難な時代における信号なのだ。
読む余裕のない社会、考える暇のない日常、
その中で、人はせめて「読んでる気分」で自分を保とうとする。
それは虚偽ではなく、ほとんど祈りに近い。
「読んでないけど、読んでいたい」。
この未完の意志こそ、人間の誠実さの残響だと思う。

しかし、問題はここからだ。
“読んだ気になる”が常態化すると、
“考えた気になる”にも、“理解した気になる”にも移行していく。
つまり、読書の形式が社会そのものに拡散する。
ニュースを見た気になる、議論した気になる、
「知っている」という仮想体験が、現実の判断を上書きする。
そして社会全体が、“読まないまま語る”構造に変わっていく。
読むことが遅すぎて、考えることが面倒すぎて、
「理解したフリ」が最適化される。
それが、知的な形をした無思考の時代である。

本を買った瞬間に読んだ気になる。
それは小さな滑稽さでありながら、この社会の縮図でもある。
私たちはすべて、何かを“手に入れた気”になって生きている。
知識も、愛も、倫理も、
まるで書店の袋の中に詰められた新品の本のように、
まだ開かれてもいないまま、“所有”というラベルで安心する。

だが、本は読むまで沈黙している。
ページを開かない限り、それはただの紙だ。
その沈黙こそ、私たちが忘れた倫理なのかもしれない。
「買った」という行為の裏にある、まだ読んでいない時間。
その未読の重さを感じられるうちは、
まだ読書は死んでいない。
呼吸をするように、少しずつページをめくればいい。
読むこととは、世界の沈黙に触れることだ。
そして、その沈黙を茶化しながら笑えるうちは、
私たちは、まだ“読んでいる途中”にいるのだと思う。

こうして書き残すことは、私にとって読書ブログを続ける意味そのものです。

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