コンビニのレジで「袋いりません」と言うとき、
なぜ人はあんなに小さく勝ち誇った顔になるのだろう。
たった5円、たった数秒の会話。
それでも、その瞬間だけは自分が世界を少しマシにしているような気がする。
地球を救った気分で、おにぎりと哲学を同時に手にしている。
だがよく考えてみてほしい。
あれは本当に“思想”なのか、それとも思想っぽいジェスチャーなのか。
レジ袋を断る行為は、倫理の最小単位になった。
たった一言で、環境問題・責任・消費意識――すべてがコンパクトに圧縮される。
つまり、「思想を持つ」という重さが、言葉の軽さに置き換えられたのだ。
「袋いりません」は、もはやエコの言葉ではなく、自己確認の呪文である。
「私はまだちゃんとしてる」「まだ終わってない」と、
そう自分に言い聞かせる儀式。
私たちは、善意のパフォーマンスで倫理を支えている。
しかし皮肉なことに、こうした“正しいジェスチャー”ほど、
一度形式化されると、誰の中身も問われなくなる。
それはもう「考える行為」ではなく、「反射」だ。
たとえば、袋を断ったあとに、
ペットボトル入りのコーヒーを片手に歩きながらSNSで「地球ヤバい」と呟く。
その滑稽さを、誰も真正面から笑えない。
なぜなら私たち全員が、何かを守った気になっているからだ。
「思想を守る」という言葉には、そもそも危うさがある。
思想とは本来、守るものではなく、問い続けるもののはずだ。
だが現代では、思想はスタンプカードのように「実践済み」に変わる。
袋を断った、寄付をした、ハッシュタグをつけた。
それらが“思想の証拠”になり、思索の終点になる。
かつての倫理は、行動の中で自分を問うことだった。
今の倫理は、行動したフリの中で自分を免除することだ。
もちろん、レジ袋を断ること自体を否定したいわけではない。
その小さな意識が連なって、社会は少しずつ変わっていく。
けれど問題は、その意識が「行為の代用品」になってしまうことだ。
私たちはあまりにも“形式の正しさ”に慣れすぎた。
だから、「正しいことを言う」「正しいふるまいをする」こと自体が、
倫理のシミュレーションとして機能してしまう。
実際には何も変わらなくても、「変えているつもり」で生きられる。
それが、現代の“やさしい自己欺瞞”である。
思えば、レジ袋の有料化という政策も、
どこかで「罪悪感の見える化」を狙った装置だった。
「袋、いりますか?」という質問は、
もはやプラスチックの話ではない。
あれは、**あなたの意識はどちら側ですか?**という確認だ。
環境への関心を問うようでいて、
実際には“良心の有無”を測る社会的センサー。
私たちは毎日、小さな道徳テストを受けている。
だが、そのテストに正解しても、世界は変わらない。
むしろ、正解した瞬間に思考が止まる。
「はい、袋いりません」――それで安心して、
次の瞬間には使い捨ての感情をSNSに流す。
怒りも悲しみも消費し、数時間後には別のトピックで正義を更新する。
倫理の即席ラーメン化。
湯を注ぐだけで“意識が高まる”仕組みだ。
それでも、この浅さを単に笑い飛ばすこともできない。
むしろ、そこに現代的な誠実さが滲んでいる。
誰もが不確かで、何が正しいのかもうわからない。
それでも“何かを断る”という小さな否を通して、
自分の良心を呼び戻そうとしている。
たとえそれが演技だとしても、演技することでしか倫理を維持できない時代がある。
「袋いりません」は、倫理の演技練習なのだ。
私は時々、あのレジのやり取りを「社会の縮図」だと思う。
店員と客、資本と良心、スピードと倫理。
たった数秒の中に、現代の矛盾が詰まっている。
「袋いりません」と言いながら、
本当は“自分の中の空虚さ”に袋をかけたいのかもしれない。
形のない罪悪感、見えない責任。
私たちはそれらを包み隠すために、
「断る」という形で“倫理の袋”を結んでいるのだ。
思い返せば、昔の「思想家」という存在は、
もっと不器用で、もっと沈黙の多い人たちだった。
言葉よりも沈黙、主張よりも逡巡。
しかし今の社会では、沈黙が「無関心」として切り捨てられる。
だからこそ、私たちは“断る”ことでしか意思を示せなくなった。
つまり、「言葉の倫理」が「操作の倫理」に変わったのだ。
タップして拒否する、スワイプして選別する、
“関与の形”がどんどんシンプルになっていく。
そして、気づけばあらゆる行為が「ポジショントーク」になっていた。
レジ袋だけでなく、ニュース、戦争、教育、ジェンダー。
どんな問題にも「自分はどっち側か」を即答することが求められる。
そのスピードが速すぎて、考える時間が消滅した。
だからこそ、人は「思想を守るふり」で自分を守る。
思考を止めるための思想。
それが、いちばん現代的な信仰のかたちだ。
でも、それでも私は、レジで袋を断る。
なぜなら、思想の真価は“正しさ”ではなく“ためらい”にあると思うからだ。
「袋いりません」と言いながら、
本当にこれでいいのかと一瞬立ち止まる。
そのわずかな逡巡の中に、まだ倫理が息づいている。
大切なのは、断ることそのものではなく、
断るたびに考え直すことだ。
思想とは、更新され続ける躊躇なのだ。
つまり、「レジ袋を断ったら思想を守った気になるのやめてもらっていいですか?」というのは、
断るな、という意味ではない。
“断り方”の中に、思考を残してほしいという願いだ。
形式の裏側に、まだ誠実さを置いておけるか。
もし私たちが笑いながら、その矛盾を自覚できるなら、
思想はまだ“守るに値する”だろう。