ラボ読書梟

~読書梟の図書館へようこそ~

文学賞発表のたびに“あれは文学じゃない”とか言うのやめてもらっていいですか?

ここは小さな読書ブログですが、ページをめくるたびに世界の見え方が変わる瞬間を残しています。

文学賞のニュースが出るたびに、どこからともなく聞こえてくる。
「いや、あれは文学じゃないでしょ。」
この一言、SNS上の風物詩になって久しい。
まるで四季のあいさつのように、「文学じゃない」と言うことで、自分の文学観を再確認する季節だ。

だが、そもそも「文学じゃない」って何だろう。
誰が、どこで、どうやって文学の定義を決めたのだろう。
そしてなぜ、その定義を守ることが、これほどまでに人の誇りをくすぐるのか。
――そう、私たちは“文学を守っているつもり”で、しばしば**「文学という形式」を守っているだけ**なのだ。

「文学じゃない」と言う行為には、ある種の安心がある。
自分が“わかっている側”に立てる。
“本物”を識別できる者としての立場を確保できる。
つまりそれは、知的アイデンティティの安全装置なのだ。
文学賞が発表されるたびに、「これは文学」「あれは文学じゃない」と線を引き直す。
その線を引くことで、自分の存在を確かめる。
文学とはもはや、作品の話ではなく、自己防衛のための境界線の儀式になっている。

でも考えてみれば、「文学じゃない」と言われた作品のほとんどが、
数年後には“文学”として再評価される。
太宰治も、村上春樹も、初期には「文学じゃない」と言われた。
つまり“文学じゃない”という言葉ほど、文学の歴史に貢献してきたものはないのだ。
文学の敵は、いつも文学を更新する。
だから、「文学じゃない」と断じる行為こそが、文学そのものの再生装置なのかもしれない。

それでも、私たちは否定せずにはいられない。
なぜか?
それは“自分の読書が時代に置いていかれる恐怖”があるからだ。
「文学じゃない」と言うとき、
実際には「自分の読んできた文学が、もう主流じゃない」という不安を隠している。
つまり、「文学を守る」ことは「自分の時間感覚を守る」ことなのだ。
「文学じゃない」と叫ぶ声の裏には、
“変わりゆく世界への取り残され感”が、そっと潜んでいる。

本当は、「文学」という言葉自体がもう、定義を超えて呼吸している。
それは小説にも、詩にも、エッセイにも、映画にも、
あるいはツイートやブログの中にも潜んでいる。
“文学じゃない”という言葉で閉じた瞬間、
文学の方が、静かに私たちを見限っていく。

文学はいつだって、形式の外に流れ出す。
誰かが「これは文学じゃない」と言う、その瞬間に、
そこにこそ文学が宿る。
つまり、文学は**“文学じゃないもの”の中でしか生まれない**。
だから、「文学じゃない」という批判は、実のところ“文学の誕生報告”でもあるのだ。

だが現代では、“文学じゃない”という断定が、
かつてのような痛みを伴わなくなった。
いまやそれは、“知的リアクション芸”になってしまった。
「またあの人が受賞か」「あの作風はエンタメ寄り」「純文学が死んだ」――
そんな言葉が飛び交うたびに、
私たちは批評を形式として消費している
批評が「思考」ではなく、「身分証明」になった瞬間、
文学は“読むこと”から“立場を取ること”へと変質した。

文学賞の季節は、読書人の“文化的期末テスト”みたいなものだ。
「どの作家が好きか」「どの選評に共感したか」。
その回答によって、あなたの知的階層が測られる。
だが、そんなテストに本気で挑むほど、文学は遠のく。
文学はもともと、答えのない問いの中で震えている。
それを「正解のある議論」に変えた瞬間、
文学は“知的制度”に回収される。

ここで重要なのは、「文学じゃない」と言いたくなる衝動自体を否定しないことだ。
むしろそれは、人間的な誠実さの表れでもある。
自分が信じてきたものが揺らぐとき、
人はつい、「あれは違う」と口にする。
それは防衛でもあり、悲鳴でもある。
つまり、「文学じゃない」という言葉は、
信じていた文学がまだ生きている証拠なのだ。

けれど、その防衛が永続化すると、
“信じること”そのものが老化していく。
文学を守ることが目的になり、
感じること、揺れること、驚くことが失われる。
文学は、守るものではなく、裏切られるものである。
文学がまだ文学であるためには、
「文学じゃない」と言われ続ける必要があるのだ。

それでも言いたくなったら、せめてこう言い直してみたい。
「あれは“いまの私には”文学じゃない」と。
その一言で、文学はもう一度、未来に開かれる。
文学の定義は、個人の時間軸にしか存在しない。
そして、その時間軸こそが「感受の倫理」なのだ。
何を感じ取るか、どこで沈黙するか、
その誠実な揺らぎの中にしか、文学は宿らない。

「文学じゃない」と言うたびに、
私たちは自分の“読めなさ”と出会っている。
そしてその“読めなさ”を抱きしめる勇気こそ、
本当の文学の入り口ではないだろうか。

だから、文学賞発表のたびに“あれは文学じゃない”とか言うの、
やめてもらっていいですか?
それを言うたびに、文学が小さく息を止める気がするから。
文学は、まだ息をしている。
ただ、あなたがまだその呼吸を聞こうとしていないだけかもしれない。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2025/10/04/%e6%98%a0%e7%94%bb%e5%8c%96%e3%81%95%e3%82%8c%e3%81%9f%e3%82%89%e5%8e%9f%e4%bd%9c%e3%81%ae%e6%96%b9%e3%81%8c%e6%b7%b1%e3%81%84%e3%81%a8%e3%81%8b%e8%a8%80%e3%81%86%e3%81%ae%e3%82%84/
https://labo-dokusyo-fukurou.net/2025/10/04/%e6%89%b9%e8%a9%95%e6%9b%b8%e3%82%92%e6%89%8b%e3%81%ab%e5%8f%96%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%82%89%e8%87%aa%e5%88%86%e3%81%a7%e8%80%83%e3%81%88%e3%81%9f%e3%81%84%e3%82%bf%e3%82%a4%e3%83%97%e3%81%aa/
この記事もまた、読書梟の読書ブログの一ページとして積み重なっていきます。

次へ 投稿

前へ 投稿

返信する

© 2025 ラボ読書梟

テーマの著者 Anders Norén