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日記
朝の通勤電車。人々の手の中では、光る小さな画面がひしめき合っている。指先は滑らかに動き、情報が次々と消費されていく。ニュース、エッセイ、短い動画、自己啓発の断片。そこにあるのは思索ではなく、ただの「更新」である。思考はスクロールの速さに合わせて、加速するでもなく、ただ流される。考えることが、もはや娯楽の一形態に変わってしまった時代――私たちはその只中にいる。
人々は「考えているつもり」で、実際には「考えた気分」を享受している。哲学の要約動画や、古典を“今っぽく”読み解く解説が再生回数を稼ぎ、本の中身を知らなくても「理解した気」になれる。けれど、ゲーテの『ファウスト』やカントの『純粋理性批判』は、決して気軽に“わかる”ことを許さない。彼らの言葉は、理解の手前で必ず読者をつまずかせる。思索とは、つまずきの中でこそ立ち上がる経験なのだ。しかし現代の文化は、そのつまずきを嫌う。立ち止まる人間より、流れている人間のほうが「健全」に見えるからだ。
なぜ人々は「わからないこと」に耐えられなくなったのか。もしかするとそれは、わからなさが“非効率”だからである。わからなさを抱えている間、人は一時的に無力になる。その時間は、SNSの更新速度から見れば、ほとんど怠惰に等しい。現代の社会は、思索の遅さを贅沢とみなし、迅速な理解を称賛する。結果、知的生活さえも「生産性」と「気軽さ」の尺度で評価されるようになった。考えることは、もはや利益を生まない。だからこそ、思索は商品化され、再生回数や“いいね”という数字に変換されていく。
だが、この還元の構造はきわめて残酷だ。なぜなら、思索とは本来、「伝わらないことを引き受ける行為」だからである。誰かにすぐに伝わらない、共感されない、その孤独を抱える覚悟なしに、考えることはできない。ゲーテが言葉を慎重に選び、エッカーマンがその沈黙を忠実に書き留めたのは、理解を遅らせるためであった。つまり彼らは、理解の速度を意図的に落とすことで、人間という存在の深みに触れようとしたのだ。ところが現代では、「遅さ」は欠点であり、「理解されにくさ」は悪徳とされる。すぐに伝わらない言葉は、“使えない情報”として排除される。こうして、思索は娯楽の形をとることでしか生き残れなくなった。
エンタメ化された思索には、独特の無害さがある。激しい問いも、倫理的な葛藤も、語り口を整えられ、感情をまぶされ、最終的には「感動」か「気づき」に収束してしまう。そこに悲劇はない。思索とは本来、心の中に沈殿する時間を要するものだ。けれど、いまの時代はそれを許さない。考えることが“楽しめる”かどうかが、思索の価値を決める尺度になってしまった。哲学は、苦しみではなく娯楽としてのみ受け入れられる。思考の痛みが取り除かれた瞬間、哲学はただのカルチャーアイテムになる。
「思索系YouTuber」「考えるライフハック」「哲学的に生きるための3ステップ」。――そこには、問いを深める代わりに、問いを短縮する技術がある。
では、私たちはもう本当に考えることができないのだろうか。
それでもなお、考えることが可能であるとすれば、それはどんな形をとるのか。
おそらくそれは、「沈黙にとどまる勇気」から始まる。
言葉が溢れる時代において、沈黙は最大の抵抗である。何かを発信せずに、しばらく考え続ける。その遅延の時間が、思索の呼吸を取り戻す。言葉を選び、沈黙を味わい、即時の承認を求めない態度。それはYouTube的時間とは真逆のリズムだ。けれども、その「非効率」こそが、人間がまだ思考を諦めていない証拠なのではないか。
エッカーマンのように、沈黙の中で他者の言葉を聴き取る姿勢――そこにこそ、現代の知的抵抗のかすかな光がある。
考えるというのは、何かを断定することではない。むしろ、自分の中の未完成さに居続けることだ。思索の価値とは、結論を出す速さではなく、結論を保留する持久力にある。つまり「わからないまま考え続ける勇気」こそが、思索の核心である。ところが、現代社会では“未完成”は弱さと見なされる。だからこそ私たちは、未完成のまま語ることに恐れを感じる。SNSの反応が怖いのではない。理解されないこと、つまり「孤立したまま考えること」が怖いのだ。
けれども、孤立こそが思索の始まりである。
孤立した思考は、やがて他者との真の対話へと向かう。
それは、すぐには共有されない、時間をかけて熟成する他者理解だ。
エンタメ的な共感が「同時性」に支えられているのに対し、倫理的な理解は「遅延」によって支えられている。
だからこそ、考えるとは、“遅く共感する”ことなのだ。
もしかすると、「考えること」は、もはや社会的に報われない営みなのかもしれない。
それでもなお考える人は、ひそやかに「沈黙の共同体」を築く。
画面の中ではなく、本の頁の中で、あるいは言葉にならない思考の余白の中で。
そこでは再生回数も、フォロワー数も、意味をなさない。
ただ、誰にも届かない言葉の奥で、思索は静かに息づいている。
その呼吸を感じ取れる人だけが、まだ世界を諦めていない。
考えることがエンタメに還元される時代においても、
考えることは、決して消えない。
なぜなら、考えるとは“世界に遅れること”だからだ。
思索とは、世界に対して即答しない態度である。
その遅れの中でしか、人間の尊厳は立ち上がらない。
問い続けよう。
すべてが「わかりやすく」整理されるこの時代に、
わからないまま立ち止まることは、いまなお可能だろうか。
