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日記
電車の揺れに合わせて、タレブの本は角で小さく跳ねた。偶然や不確実性に体を預けることを勧める声は、混み合った車内のざわめきの中で逆説的に落ち着いて聞こえる。ページを閉じれば、斜め前の吊り広告は「新しい常識」を約束し、スマホの画面は「正しい努力」を保証する。建前の海だ。そこへトルストイの長い息を吸い込む。人間が自分をごまかさないために、どれほどの回り道を要するかを、彼は登場人物の沈黙で教える。生を一行で定義しない。そのくせ、読む者に「一日の重さ」を返してくれる。今日の私は、この二人に挟まれたまま、アドルノの残した不快な針を指先で探っていた——人は形式によって悪に堕ちるのではないか、と。
私の言う「形式」は、手続きや記録や儀礼そのものではない。むしろそれらの多くは人を守る。問題は、形式が現実を一義化する瞬間だ。履歴書の一枚が人間の厚みを削り、KPIの小数点が努力の質感を捨てさせ、「前向きに検討します」の八文字が、実際には検討の不在を隠す。アドルノの言葉を借りれば、同一化の暴力。フィッシャーを添えれば、制度が生んだ痛みを個人の責任に還元する装置。そこでは誰も命令していないのに、皆が命令に従っている。私もだ。だからこそ私は、形式の外に出る英雄の物語ではなく、形式の関節にほんのわずかな遊びを残す実務の話を続けたい。誤配であられること——正しい宛先に見える封筒へ、あえて少しだけ別のメッセージを忍ばせること。
セネカを読み返すと、彼が勧めるのはいつだって巨きな理念ではなく、小さな手順だ。夕べの自己点検、怒りの直前の深呼吸、恩を秤に載せない贈与。建前に対する反撃としての「留保句」——運命が許せば、と心に付記する癖。キケロなら decorum、状況に即した適切さの感覚で、義務を一本化しない。私は今日、これらを「反・建前翻訳」という個人的な作業に束ねてみた。建前が口を開いた瞬間、その言葉を「誰が」「何を」「いつまでに」「どの条件なら」に訳し直す。翻訳の出来が良いほど、場にいる人間たちの表情は緩む。責めるための可視化ではなく、手渡すための可視化。形式は壊さなくていい。ただ、蝶番にしておく。鉄の扉ではなく、開閉の跡が残る建具にする。打合せの議事録に、原文と翻訳文を並記するだけで、同じ言葉が仕事から人間を追い出すことをやめるのを、私は何度か目撃した。
タレブは偶然と冗長性を重視せよと言う。誤配とは、その冗長性を倫理として持ち込むことだと思う。最短で成果へ行かないように設計する。例えば「すぐ対応します」と言いそうになった舌を止め、「着手は明日の午前、完成は16時、ただし急ぎならこの工程を削る」と言い直す。時間に余白ができ、相手の事情が入り込む。誤配は遅延の倫理であり、関係の回復装置だ。トルストイは、人物の選択をすぐに正しい・間違いと裁かない。彼は時間をかけて、判断の微妙な差異が関係をどう変えるかを描く。十行先で回収されない善の努力。これも誤配だ。即時の見返りを前提としない善意は、計測の文法から外れるので、建前に吸収されない。その外れ方の美しさを、トルストイの人物たちは時に敗北の中で見せる。
帰宅すると、小包が届いていた。ペトラルカが愛してやまなかった古典の一つ、『神々の本性について』。厳密にはキケロの著だが、私の机の上ではセネカと肩を並べる。ペトラルカが二人を同じ棚に置いた気分で、私は封を切る。古い問題——人間にとっての善とは何か。最高善は徳か、快楽か、混成か。現代の私がこの書を開くのは、正解が欲しいからではない。建前が「善」を押しつけてくる場面で、私が私に問い返すためだ。「善」を採点表に書き込むのではなく、今日の一手に訳し直すためだ。セネカは言うだろう、善は魂の状態であり、外的な富は無差別だと。けれど私は、制度や市場のフォームが人を削るのを見てしまった時、その一文だけでは踏みとどまれない。だから私は二つの方向から回り込む。キケロの議論で善の輪郭を粗く摺り直し、セネカの手順で小さな行為に還元する。輪郭と手順。この二つが揃うとき、「形式によって悪」は「形式によって善」にまで反転しうる——善が建前になる前に。
今日の実験はささやかだ。メールに「前向きに検討します」と書きかけて、指を止める。誰が、何を、いつまでに。私は書き直す。さらに勇気を出して、ノンカウントの提案を一行差し込む。「この試行は評価から外して良ければ、次の方法も試せます」。返ってきた相手の返事は短かった。「それでいきましょう」。善とは、壮大な理論が入る額縁ではなく、こうした小さな翻訳が積み重なって残す傷跡のことかもしれない。形式は敵ではない。敵は、形式の不可逆化だ。蝶番をつける。遅延を許す。反対側の弁護人を配置する。恩の速度と単位をずらす。私は今日の対話から、そんなメモだけをポケットにしまって電車に乗った。広告は相変わらず「新しい常識」を約束していたが、私は約束しなかった。私は訳した。自分と、相手と、明日の私に向けて。
ペトラルカが手紙で見せる熱は、古典を偶像にしない熱だ。彼は古人を崇めるのではなく、現在に呼び戻す。私はそれに倣いたい。セネカとキケロ、タレブとトルストイ、アドルノとフィッシャー——異なる時代の声を、建前という同時代の装置に向けて再配置する。誤配はミスではない。人間が人間に戻るための、配達の工夫だ。ならば私は、明日の会議で一つだけ誤配を仕掛けよう。議題の最初に見直し期日と撤退基準を書き、最後に匿名の恩を提案する。形式は今日も働くだろう。ならば形式の蝶番は、誰が油を差すのか。
