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日記
つづきを展開
可逆性功利主義構想
「情弱ビジネス」というのは、「黙っていれば返さず、言われたぶんだけ渋々返す」という可逆性ゼロの商売である──最近の私は、この一文を、ただの怒りを込めた悪口ではなく、ひとつの現実描写として受け止めざるを得なくなった。
ここでいう「情弱」とは、単にインターネットに疎いとか、契約書の読み方を知らないという意味だけではない。制度の裏側にどのような計算が潜んでいるかを知らず、しかしその重さだけは確実に引き受けさせられてしまう人、というくらいの意味で使っている。私自身がその一人として、ある継続サービスの中途解約をめぐって、契約金額・返金額・「役務」と呼ばれるものの範囲について延々とやりとりすることになった。
詳細な固有名詞を書く必要はないだろう。ここで重要なのは、個別の企業の善し悪しではなく、「言わなければ返さない/言われたぶんだけ返す」というビジネスモデルが、一定の制度のもとでいかに自然に、かつ静かに作動してしまうか、という点である。表面的には「適法」な顔をして、しかし中身をほぐしていくと、「誠実さ」という言葉からどんどん遠ざかっていく。その距離感を測るために、私は自分なりに「可逆性功利主義」という仮のラベルを作ってみた。
功利主義は、最大多数の最大幸福を志向する考え方とされるが、現実の制度やビジネスの現場で採用されるのはたいてい「可逆性」を無視したバージョンだ。いったん支払わせたものは、よほどのことがなければ返さない。クーリング・オフ期間が過ぎたら「自己責任です」。中途解約はできるが、「提供済みの役務」と「通常生ずる損害」を最大限に積み上げ、法律が許すぎりぎりのところまで控除する。そのうえで「特別対応」として、少しだけ上乗せして返金し、「誠実に対応しました」と胸を張る。
しかし、本来あるべき功利主義は、もっと可逆的であるべきではないか。つまり、「間違った契約」「期待に反したサービス」「説明と実態のズレ」が発生したときに、それをどれだけ容易に、どれだけ対話的に巻き戻せるか。その可逆性こそが、当事者双方の幸福の総量を左右するはずだ。ところが現実のビジネスは、多くの場合、この可逆性をコストとしてしか見ない。返金は損失、謝罪はリスク、柔軟な対応は「前例を作るから避けたいもの」として処理される。
私が経験したのは、まさにその「可逆性の軽視」が凝縮されたような事例だった。契約全体の金額があって、そのうち一部だけを「役務部分」として切り出し、「残りは入会金・登録料などの初期費用なので返金対象外です」と説明される。では、その初期費用は具体的にどのような作業の対価なのか、何時間分のどんな実務に充てられたのか、と問うと、説明はにわかに抽象化していく。「会員情報の登録」「プロフィール作成」「サポート体制の構築」。どれももっともらしく聞こえるが、その実体は霧のように掴みどころがない。
ここで奇妙なのは、法制度の側も「初期費用」というグレーな箱を一定程度認めてしまっていることだ。「契約締結および履行に通常要する費用」であれば、一定の上限内で請求してよい、と。制度は一定の幅をもたせて設計されている。その幅を、消費者の利益のために使うのか、事業者の利益のために最大限に押し広げるのかは、結局のところ、運用する人間の「態度」にかかっている。
ルソーは、制度そのものよりも、それを運用する人間の在り方にこそ腐敗の源泉を見るべきだと語った。制度は完全にはならないが、それをどう使うかは、少なくとも部分的には私たちの選択に委ねられている、と。私のささやかな中途解約トラブルは、この古典的な主張を、いやになるほど具体的な形で確認させてくれた。制度としては、中途解約の権利は保障されている。返金の上限も、ある程度明確に定められている。だが、その内側で何を「提供済み」と数え、何を「初期費用」として逃がすかについては、事業者に広い裁量が与えられている。そして、その裁量は、多くの場合、「黙っている人からは取りっぱなしにし、異議申立てをした人にだけ、一部を返す」という方向に使われる。
ここで、「情弱ビジネス」の本質が立ち現れてくる。情弱ビジネスは、法律の外側で暴れるわけではない。むしろ、法律の「内側ギリギリ」を綱渡りすることで成立する。規約や重要事項説明書の文言は、それなりに整っている。クーリング・オフの説明も、中途解約の精算方法も、一応は書いてある。だが、その説明を完全に理解し、疑問点をすべて確認し、事業者と対等に交渉できる消費者がどれほどいるだろうか。説明の複雑さそのものが、「わからないままサインしてしまう」という行動を前提に設計されているのではないか、と疑いたくなる。
そして、いざ「おかしい」と声を上げると、今度は別のコストが襲いかかってくる。問い合わせメール、電話、担当者のたらい回し、公的機関への相談、経緯書の作成、あっせん手続き──すべてに時間と精神力がかかる。多くの人は、日々の仕事や生活でただでさえ疲れている。そこへさらに「制度と闘う」というタスクが上乗せされるなら、「まぁいいか、このくらいなら勉強料だ」と諦めたくもなるだろう。情弱ビジネスは、この「諦め」を前提に収益構造を作っている。つまり、「可逆性にアクセスするためのコスト」を十分に高く設定しておき、そのコストを払える少数にだけ、渋々返金する。それがあたかも「誠実な対応」であるかのように。
ここで、私が掲げたいのが「可逆性功利主義」というささやかな原則だ。可逆性功利主義とは、「人間の判断は間違うし、状況も変わる」という前提に立ち、その誤りや変化を、可能な限り少ないコストで巻き戻せるような制度設計を重視する立場である。具体的には、「説明が不十分だった場合は消費者に有利に解釈する」「初期費用の内容を具体的かつ検証可能な形で明示する」「中途解約時の精算方法は、消費者が自力で再計算できる程度の透明性をもたせる」といった、ごく当たり前のことだ。
しかし、この「当たり前」が、実務の現場ではしばしば軽んじられる。なぜか。私は、その理由の一端を「可逆性の外部化」に見る。返金や謝罪のコストは、「クレームを最後までやり抜いた少数者」に対してだけ支払えばよい、と考えられているからだ。大多数は、そもそも声を上げない。声を上げても途中で折れる。だから、全体として見れば「返金コスト<追加売上」となり、ビジネスとしては成立してしまう。ここには、功利主義のようでいて、実は極めて偏った効用計算がある。可逆性を求める側の負担が、システム設計の段階ではほとんどカウントされていないのだ。
タレブなら、こうしたビジネスを「テールリスクの外部化」と呼ぶかもしれない。ごく一部の人だけが、時間・怒り・書類・電話・相談機関の活用といった重い負担を引き受けることで、その他大勢の「沈黙の損失」が埋め合わされ、全体としての収益モデルが維持されている。そこには、見えない「誰かの消耗」が埋め込まれている。その見えなさこそが、情弱ビジネスの静かな暴力性だ。
では、どうすればいいのか。個人としてできることは、正直なところ限られている。一つには、今回のように、粘り強く異議を申し立てること。もう一つは、そのプロセスを可能な限り記録し、制度の限界と人間の態度の両方を描き出すことだと思う。私はその記録を、特定の企業名やサービス名を伏せつつ、ひとつの実例として残したいと考えている。これは「復讐」ではなく、「可逆性功利主義」の実験記録としてである。
私が見たいのは、「言わなければ返さない」世界ではなく、「言えば、筋の通った説明と、必要なら修正がなされる」世界だ。そのためには、「黙っている人の沈黙」にも、一定の重みを与えなければならない。クレームを入れた少数者だけでなく、声を上げない多数者の損失も推計に入れたうえで、制度やビジネスモデルを見直す必要がある。そうでなければ、情弱ビジネスはいつまでも「合法的なグレーゾーン」として存続し続けるだろう。
今回のささやかな「戦い」は、私に一つの確信を与えた。制度は完全ではないが、まったくの無力でもない。そして、制度をどう使うかを決めるのは、やはり人間の側の態度だということだ。可逆性功利主義は、壮大な理論ではない。ただ、「間違ったときに引き返せるようにしておこう」という、ごく控えめな倫理にすぎない。それすらも実現できない社会が、本当に「成熟した消費社会」と呼べるのだろうか──この問いを、私はこれからどのような言葉と例で深めていくべきなのだろうか。
