ラボ読書梟

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新・読書日記637(読書日記1977)

読書ブログという形をとりながら、私自身の思索と読書体験を交差させてみたいと思います。

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日記

今日は一日じゅう、頭のどこかがずっと「うるさい」ままだった。A型の現場は相変わらず人も仕事も足りていないのに、クレームと不満だけはきちんと増えていく。こちらはギリギリの段取りでなんとか回しているつもりなのに、「仕事が雑」「あのときもミスしていましたよね」と、あたかも「雑さ」と「ミス」だけが私の全体像であるかのように切り取られる。プロだから立ち上がらねば、と自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、その言葉が重りになって足を取られていくような感じがする。

そういうコンディションのまま机に向かい、今日はキケロ『善と悪の究極について』を開いた。正直、集中力はあまり残っていなかったが、それでも活字の世界に一度逃げ込んでみたかった。冒頭近くで、対話に登場する論客がエピクロス派の命題「快楽は最高の善である」を力説する場面がある。人生の目的は快楽であり、苦痛の除去である、というあの有名な筋立てだ。読んでいると、「よくそんなに自信満々に言えるな」と、半ば感心しつつ、半ばうんざりもする。

そこでふと、ヒルティの『幸福について』で読んだストア派批判を思い出した。ヒルティはストア派的な「感情の完全な抑圧」や「自足的な賢者像」を批判し、もっと柔らかく宗教的な、他者や神との関係に開かれた幸福観を提示していたと記憶している。彼はストア派を批判しつつ、同時に安易な快楽主義にも与しない。その二つのどちらにも寄りかからずに幸福を語ろうとする、その姿勢だけでもう一歩、深みに触れているような気がする。

それに比べて、今日読んだキケロの論客は、とにかく世界を「苦痛」と「快楽」の二項にきれいに仕分けすることに熱心だった。何をするにせよ、結局は快楽を増やし、苦痛を減らすためであり、徳や友情でさえも最終的には快楽の源泉にすぎない、と。そこには「創造」という言葉が一度も出てこない。新しい関係を育てる、新しい仕事をつくる、新しい日々の意味づけを紡ぎ直す、そういう「なにかを生み出してしまう運動」が、きれいに抜け落ちている。

快楽と苦痛だけで世界を語る人間は、正直なところ、現場感覚から見ると少しバカに見える。いや、バカという言葉はきつすぎるかもしれないが、少なくとも「薄い」とは感じる。A型の現場で、利用者さんと一緒に作業を組み立てていると、そこでは「楽しい/しんどい」以上のものが常にうごめいている。うまく言葉にしづらい違和感や、もつれた自尊心や、誰にも届かない努力や、ささやかな誇り。その全部をひとまとめに「快楽/苦痛」に還元してしまうのは、あまりにも乱暴な切り捨てだ。

たとえば、今日の私はまったく「快楽」を感じていなかった。むしろ、文句を言われ、ミスを粗探しされ、自己評価は地の底を這っていた。エピクロス的に言えば、「どう見てもよくない一日」だろう。でも、その一日の中で私は、誰にも見えないところで段取りを組み替え、別の利用者さんのフォローに走り、なんとか事故やトラブルが起きないように全体を支えていた。あれは「快楽の足し算・引き算」として評価できる類いのものなのだろうか。

快楽主義の論客の言葉に「創造」がないのは、おそらく彼の世界が「すでに与えられた選択肢の中で最適な快楽を選ぶ」という発想に固定されているからだろう。すでにあるメニューの中から、一番お得なセットを選ぶ。けれど福祉の現場では、そもそも「メニュー」自体がろくに用意されていない。働きたいのに働けない人、働く場所があっても制度の枠組みや人間関係の歪みで力を出せない人。そういう人たちと一緒に、「まだメニューに載っていない仕事」や「まだ誰も言葉にしていない役割」を、少しずつ創っていく。それは、「快楽の計算」とはべつの次元の営みだ。

だからと言って、私は聖人ではない。むしろ真逆で、ちっぽけな自己愛や承認欲求にあっさり振り回されるタイプの人間だと思う。だからこそ、「裏切られた感」がこんなにも簡単に膨らんでしまうのだろう。自分なりに一生懸命やったつもりのことが、利用者さんからも同僚からも評価されないとき、心の中で「これだけやったのに」という計算が瞬時に動き出す。その計算が返ってこないと、「自分はダメなんだ」という自己否定のスイッチが押される。冷静に考えれば、これはこれで一種の「快楽計算」なのかもしれない。

私は「真面目馬鹿」という言葉を自嘲気味に使うけれど、その「真面目さ」も、「馬鹿さ」も、どこかでこの快楽主義の図式に巻き込まれているのかもしれない。これだけ頑張れば、きっとどこかで報われるはずだ、という期待。それが外れると「裏切られた」と感じる構造。エピクロス的な快楽主義を笑いながら、実務の現場では自分もまた「見えない快楽の見返り」をどこかで求めている。そう考えると、論客をバカにしているだけの立場には到底いられない。

では、この「裏切られた感」をどう扱えばいいのか。ヒルティであれば、「幸福は、外から与えられる快楽ではなく、自分の内側での静かな充足に近い」と言うだろうか。それとも、「義務を果たすことそのものが幸福だ」と言うだろうか。もし後者に全振りしてしまうと、福祉の仕事は簡単に自己犠牲の道徳へと滑り落ちる。どれだけしんどくても、どれだけ理不尽でも、「自分が選んだ義務だから」とすべて飲み込んでしまう危険がある。それはそれで、ストア派の硬直した徳のイメージとどこか似ている。

今日のところ、福祉について深く考える気力は残っていない。むしろ、「明日もう少し落ち着いてから考えよう」と自分に猶予を与えることで、なんとか一日の終わりに辿り着いたような気がする。ただ、キケロを読みながらぼんやり思ったのは、「善」や「幸福」を快楽の計算だけでも、自己犠牲の道徳だけでも語りたくない、ということだ。創造という要素――まだ存在しない関係や仕事や意味を、誰かと一緒に立ち上げていく営み――を、そのどちらとも違う次元にしっかり置きたい。

今日の私は、仕事では散々な気分で、読書にも集中できず、哲学的な結論にはまったく届いていない。それでも、エピクロス派の「快楽は最高の善である」という命題にいら立ちを覚え、ヒルティのストア派批判を思い出し、「創造」がすっぽり抜け落ちた議論の不気味さに気づいたことだけは、ささやかな収穫だったのかもしれない。真面目馬鹿として実務の現場でもがきながら、それでもなお、「快楽でも自己犠牲でもない、もうひとつの善」を探すこと自体は、私にとってどんな意味を持つのだろうか。

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