ラボ読書梟

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新・読書日記638(読書日記1978)

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日記

今日一日を振り返ると、「仕事をしているだけでは到底満足できない自分」というフレーズが、頭の片隅で終始点滅していたように思う。三十代をいかに生きるべきか。この問いが背景に鳴り続けるなかで、私は今日も紀伊國屋書店新宿本店に足を運び、棚を一巡し、紙の手触りとタイトルの響きで本を選び、気づけば十冊ほどを抱えてレジに並んでいた。レジ袋のずしりとした重さは、労働の対価をいったん「可能性」に変換した証拠であると同時に、今日もまた決定的な答えは見つからなかったという告白でもある。

今日読んだのは、プラトン『パイドロス』、トルストイ『復活』、そしてキケロ『善と悪の究極について』である。この三冊は一見ばらばらに見えながら、どれも「どう生きるか」という一点にねじれた軌道で向かっていく書物であった。『パイドロス』において、ソクラテスは恋する魂を、理性的な御者と二頭の馬の比喩で語る。理性は手綱を握っているはずなのに、説明のつかない衝動や憧れが、馬の暴走のように身体を引きずっていく。三十代とは、若さゆえの無鉄砲さを言い訳にできなくなりつつも、衝動そのものはまだ衰えないという、奇妙な中間点であるように思われる。だからこそ、日々の仕事だけに生のエネルギーをきれいに回収されてしまうことに対し、どこかで抵抗したくなるのだろう。

トルストイ『復活』は、その抵抗が「良心」というかたちを取ったときに何が起こるかを、容赦なく突きつけてくる。ネフリュードフは、若き日の罪と向き合わされ、「ちゃんと生きてきたつもり」の自分の人生が、他人の人生を踏みつけたうえに成立していたことを知ってしまう。三十代とは、過去の選択が「結果」として固まり始める年代でもある。転職も進路変更も不可能ではないが、「これまで」の重みをゼロには戻せない。そのとき、『復活』の物語は単なる教訓ではなく、「いま軌道修正するとしたら、私は何を失い、何を得るのか」という、計算と良心の葛藤として迫ってくる。

そしてキケロ『善と悪の究極について』第十巻である。トルクワートゥスがエピクーロスを代弁して語る箇所に、次の一文がある。

「エピクーロスはそれを快楽とし、それが最高の善であり、苦痛が最大の悪と主張して、そのような所見を糸口として証明を試みました。」(P31『善と悪の旧欲について』)

この一文を読んだとき、私は現代日本における「普通に働いて、そこそこ楽しむ」人生設計を連想せずにはいられなかった。痛みを避け、ささやかな楽しみを大事にし、無理をしない。ある意味でエピクロス主義は、三十代の会社員にとってきわめて魅力的な倫理である。残業を減らし、ほどよく飲み、たまに旅行へ行く。そのすべては「苦痛の回避」と「快い感情の維持」という枠組みの中で説明可能だからである。

しかしキケロはそこで、容赦なく「定義」の問題を持ち出す。

「(…)定義をしなければ、論争の当事者のあいだで何が争点になっているのか、ときには合意を形成することが不可能になることがあります。いま私たちが議論しているこの問題自体が良い例です。」(P62『善と悪の旧欲について』)

この一節は、哲学論争の技術論である以上に、私自身が日常的に使っている言葉への批判として響いてきた。エピクーロスは「快楽」と言いながら、実質的には「苦痛の不在」を語っているのではないか、とキケロは疑う。続けて彼は、さらに辛辣な指摘を行う。

「(…)実のところ私は、エピクーロス本人がそれを知らず、それについて考えが一定していない、ということを言いたいのです。そして、一つ一つの言葉がもつ意味を正確に表現するよう細心の注意を払わなければならないと口繋く説いているその本人が、その快楽という語がその音によって何を意味しているのか、つまりその語がいかなるものに基づいているのか、理解していないと言いたいのです。」(P64『善と悪の旧欲について』)

エピクロスが「快楽」と「無苦痛」を同一視していることに対し、キケロは強く異を唱える。私はこの批判に、全面的に同意せざるをえなかった。いや、それだけでなく、同じ問題が「充実」「やりがい」「幸福」といった語を濫用する現代の自分自身にも、そのまま跳ね返ってくるように感じられたのである。

すなわち、私は「やりがいがある仕事」と口にしながら、実際には「退屈しない仕事」程度の意味で使っていないか。「幸せな生活」と言いながら、その実、「不安にさいなまれない状態」にすぎないものを指してはいないか。もしそうだとすれば、私はエピクーロスのことを笑えない。むしろ、自分の人生を支えるはずの語の定義を曖昧なまま放置してきたという意味で、同じ過ちを犯しているのである。

紀伊國屋書店の棚を眺めながら、私はふと自分の行動を、エピクロス的な「快楽」追求としてではなく、「無苦痛」維持の微調整として見直したくなった。読めていない本が積み上がっていく不安を、新しい本で上書きしていく。書棚が増殖するたびに、私はどこかで「まだ決定していない自分」を温存している。つまり本を買うことで、「今の生き方が最終形ではない」という希望と猶予を、少しだけ先延ばしにしているのではないか。

『パイドロス』のソクラテスは、書物についても警戒を示す。書かれた言葉は話し手を持たず、自らを弁護できない「像」にすぎない、と。しかし、その「像」にすがらずにはいられないほど、私たちの内側は揺れているのだとも思う。三十代という時期、仕事のスケジュールと日常のタスクはある程度ルーティン化していくが、その一方で「本当にこれでよいのか」という問いは、むしろ二十代よりくっきりと姿をあらわす。だからこそ私は、ソクラテスが疑ったはずの「文字」によって、かろうじて自分の思考の軌跡を確かめようとしているのかもしれない。今日こうして読書日記を書いている行為も、言葉の定義を確かめ直すための、小さな弁論術の訓練である。

『復活』のネフリュードフは、ある瞬間から過去の自分をまるごと引き受けざるをえなくなるが、その転換点は決して巨大なドラマとして訪れない。ふとした出会い、偶然の再会、一枚の紙切れ。ささいな契機を通じて、これまで見ないふりをしてきたものが、突然「見えてしまう」。私たちが本屋で一冊の本を手に取る瞬間も、縮小版の「復活」となりうるのではないか。今日購入した十冊のうち、いくつが私の価値観を揺さぶり、生き方を微小にせよ変化させるだろうか。いくつが、単に「無苦痛」の継続を助けるだけにとどまるのだろうか。その比率は、きっとすぐにはわからない。数年後、あるいは十年後に、ゆっくり浮かび上がってくるのだと思う。

キケロは「快楽」「善」といった概念を、論争の当事者が共有しないかぎり、合意形成など不可能だと主張する。この指摘は哲学の場にとどまらない。職場で「成長したい」と言うとき、その「成長」が昇進なのか、スキル獲得なのか、人間的成熟なのかが共有されていなければ、会話はすぐにすれ違う。家庭で「安定した生活を送りたい」と語るときも、その「安定」が収入、健康、対人関係のどれを指すのかが合意されていなければ、議論は噛み合わない。三十代になって痛感するのは、この「言葉の共有」の難しさである。古代ローマの弁論家の、しつこいほどの定義へのこだわりは、その意味で羨ましくさえある。

結局のところ、今日の読書は次の問いへと収束していく。――私はエピクロス的な「快楽(あるいは無苦痛)」の上に三十代の人生設計を立ててしまってはいないか。トルストイ的な「復活」が迫るような、過去への厳しい引き受けを、どこかで回避してはいないか。ソクラテスの言う、理性と衝動のせめぎあいとしてのエロスを、「趣味」や「自己投資」といった無難なラベルによって中和してはいないか。紀伊國屋書店のレジ袋をぶら下げて帰宅する私は、そのどれに近いのか。それともどれとも違う、まだ名づけられていない別の生を模索しているのか。

明日には、キケロの議論がさらに展開し、エピクロス批判もより体系的なかたちを取るだろう。そのとき私は、自分がふだん何気なく使っている「快楽」「善」「幸福」「仕事」「充実」といった語を、どこまで正確に、どこまで自分の経験と結びつけて語り直すことができるだろうか。三十代をどう生きるべきかという問いは、突き詰めれば、自分がどの言葉を「最高善」と呼び、その言葉にどのような中身を与えるか、という問題にほかならないのかもしれない。だとすれば、私は明日もまた本を読むことで、この問いから逃げているのであろうか。それとも、ようやくこの問いと正面から向き合い始めていると言ってよいのだろうか。

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