閉じる

それって不可逆性ですよね?インフルエンサーと非インフルエンサーの非対称性

本を読むこと、そして書き残すこと――それを読書ブログとして続けているのが「読書梟」です。

    

不可逆性の上に築かれた正しさは、いつか必ず誰かを押しつぶす。

 「それって不可逆性ですよね?」という言い方が、最近自分の中でしっくりきている。
 なにかモヤモヤする制度や慣行に出会ったとき、「それは誰にとってだけ都合がよくて、誰にとってはやり直しがきかないのか?」と問い直すための合言葉である。

 今回取り上げたいのは、インフルエンサーと非インフルエンサー(ただの市民)のコミュニケーションの非対称性である。これはすでに何度か書いてきたテーマだが、「不可逆性」というレンズであらためて整理してみたい。

インフルエンサーは投げ放題、市民は届かない

 インフルエンサーは、タイムライン上で一日に何十発、何百発とメッセージを投げることができる。フォロワーの数だけ「届いてしまう」回路をもっている。
 一方で、非インフルエンサーはどうか。基本的に、インフルエンサーと対等な条件で「直接の会話」をすることはできない。引用リプライを投げることはできるが、それが本人に読まれる保証はない。DMはそもそも開かれていないことの方が多い。

 つまり、「発信する権利」と「応答してもらえる権利」がきれいに分断されている。
 インフルエンサーから非インフルエンサーへのベクトルはほぼ無制限で開かれているのに、逆方向はほとんど閉じている。これが、コミュニケーション構造としての「不可逆性」である。

典型的な炎上事例の「テンプレ構造」

 この不可逆性は、実際の炎上でどう姿を現すのか。ここでは、ありふれたパターンを一つ、テンプレとして描いてみる。

  1. ① 強い一般化のポストが放たれる
     ある程度フォロワーの多いアカウントが、たとえば次のようなことを言う。
     「○○な人は努力不足である」「年収△△未満なら甘えである」「こういう働き方をしている人は、日本をダメにしている」など。
     内容は少々極端であっても、「言い切り」であるがゆえに、タイムラインではよく映える。
  2. ② 非インフルエンサー側に「刺さりすぎる人」がいる
     そこで名指しされているわけではないが、「自分の仕事」「自分の生活」「自分の属性」がまとめて軽んじられたように感じる人が一定数いる。
     彼/彼女らは、単に「不快だ」と思うだけでなく、「この言い方の仕方はおかしい」「前提が雑である」と感じている。しかし、落ち着いて論点を整理し直す場は用意されていない。
  3. ③ 丁寧な反論が届きにくい
     それでも、何人かは丁寧な反論を書こうとする。データを示したり、自分の置かれた状況を説明しながら、「こういう事情もある」という文脈を足そうとする。
     だが、そのようなリプライは、インフルエンサー本人の通知欄ではその他大勢の中に埋もれてしまいがちである。アルゴリズム的にも、「長くて冷静な異議申し立て」より、「短くて感情的なツッコミ」の方が可視化されやすい。
  4. ④ 罵倒と嘲笑が一番目立つ形で残る
     結果として、もっとも目につきやすいのは、「ふざけるな」「こいつ何様だ」といった怒りの声や、逆にインフルエンサーに同調する形で非インフルエンサーを嘲笑する声である。
     冷静な批判や異議は、タイムライン上では「ノイズ」として処理されやすく、罵詈雑言だけがスクリーンショットで切り取られ、まとめサイトや二次的な炎上へと再利用されていく。
  5. ⑤ インフルエンサー側の「物語」はこうなる
     このとき、インフルエンサーの側には次のようなストーリーが生まれる。
     「論理的な話をしただけなのに、感情的なアンチが絡んできた」「一部の過激な人たちが騒いでいるだけである」
     こうして、自分の発言の射程や、そこに含まれていた雑な一般化が問い直される機会は失われる。見えているのは、罵倒のスクリーンショットだけである。
  6. ⑥ 非インフルエンサー側には「学習された諦め」が残る
     一方、非インフルエンサーの側に残るのは、「丁寧に書いても届かない」「ならば最初から丁寧に書かない方がマシだ」という学習である。
     その結果として、「どうせちゃんと説明しても聞いてもらえないなら、せめて一撃は食らわせてやる」という感情的な反応が増えていく。ここで罵詈雑言は、単なるマナー違反ではなく、「届かなさ」に対する最後の短絡的な対抗手段として位置づけられてしまう。

 この一連のプロセスは、特定の誰かの話ではなく、かなり反復されているテンプレートである。
 ポイントは、個々人の性格の問題だけでなく、「一方向の発信が容易で、逆方向の応答が構造的に難しい」という設計が、炎上を不可避なものとして組み込んでしまっている点にある。

不可逆な構造がつくり出す「罵詈雑言の場」

 以上のテンプレを踏まえると、SNSが「罵詈雑言のための場所」に劣化していくメカニズムが、少しはっきり見えてくる。

  • 一方向の発信は、フォロワー数によって強力にブーストされる。
  • 逆方向の応答は、構造的に届きにくい。
  • アルゴリズムは、冷静な反論よりも、短くて強い感情表現を可視化しやすい。

 この三つが揃うと、「異議申立ての最適戦略」として、罵倒や揶揄が選ばれやすくなる。もちろん、それが望ましいとは誰も思っていない。それでも、「届かなさ」が強い環境では、どうしてもその方向に引きずられてしまう。

 ここで重要なのは、やはり構造の問題として見ることである。
 罵詈雑言を書いた個人の責任は消えないが、その個人だけを叩いても、ほとんど同じパターンの炎上が別の場所で再演される。不可逆な構造は、その上に誰が乗るかに関係なく、似たような結果を再生産してしまうからである。

これはベンサムの功利主義なのか?

 ところで、このような構造を前にすると、ふとベンサムの功利主義が脳裏をよぎる。「最大多数の最大幸福」を掲げるあの理論は、まさかSNSでの罵倒と炎上で「エンゲージメント」が最大化される状態を肯定するためのものだったのだろうか。

 そんなわけがない。
 少なくとも、真っ当な意味での功利主義は、「誰の痛みが無視されているか」「誰の苦しみがカウントされていないか」という問いから逃げてはいけないはずである。

 インフルエンサーとプラットフォームの側は、エンゲージメントという形で「数値化された反応」を見ている。しかし、その裏で「まともな反論や異議申し立てのルートが閉ざされているがゆえに、罵倒しか残っていない人々」の存在がいるとしたらどうか。
 その人たちの沈黙や諦め、不信や疲弊は、どのようにカウントされているのか。いや、そもそもカウントされているのか。

 ここには、「痛みの測定可能性」を過信する功利主義の古典的な弱点が、そのままSNSの設計に移植されてしまっているように見える。「見えている数値だけを指標にすると、見えない苦痛が切り捨てられる」という構造である。

可逆性功利主義はこの構造を許さない

 では、可逆性功利主義は、どの点でこの構造を拒否するのか。

 ざっくり言えば、可逆性功利主義は「その立場を入れ替えてもよいと思えるか?」を常に問い直す立場である。もっと短く言えば、「やり直せるように設計された功利主義」と言い換えてもよい。
 インフルエンサーと非インフルエンサーの役割を入れ替えたとき、自分はその制度設計を受け入れられるか。
 自分が市民側の位置に立たされたとき、現状のように「届かない反論」「拾われない異議」「沈殿する怒り」の中に放り込まれてもなお、「これが最大多数の最大幸福です」と言えるのか。

 可逆性功利主義から見ると、いまのインフルエンサー/市民の関係は、明らかにそのテストをパスしていないように思える。
 「言われっぱなしにされる側」と「言いっぱなしで済む側」が長期的・構造的に固定されている状況は、どう考えても可逆ではない。そこでは、幸福や満足の分配だけでなく、「異議申し立ての権利」そのものが偏っているからである。

可逆性から見たコミュニケーション設計

 では、この不可逆性を和らげるためには、どのような条件が必要だろうか。

 たとえば、次のような可逆性テストを考えてみることができる。

  • ① 応答可能性の確保
    少なくとも一定の頻度で、市民側の声がインフルエンサーに「届く」仕組みがあるか。公開のQ&A、定期的なフィードバック受付、批判的な意見をまとめて扱う回など。
  • ② 役割交換の想像可能性
    インフルエンサー自身が、「自分が少数派の市民だったら、この言い方を受け入れられるか?」と想像し直す訓練をしているか。これは制度というよりも倫理的実践の問題である。
  • ③ 罵倒以外のルートの保障
    反論や異議を「丁寧に書いても届かない」のではなく、「丁寧に書けば届きやすくなる」ような回路が設計されているか。いまのSNSは逆方向に補強されているが、本来はここを反転させるべきである。

 可逆性功利主義は、こうした設計原理を通じて、「とりあえず炎上させればいい」「バズれば勝ち」という現在の罵詈雑言構造を、別の均衡点へとずらしたい。
 それは、単に「みんな仲良くしましょう」というきれいごとではなく、「構造として罵倒以外の選択肢を残す」ための制度設計の問題である。

 インフルエンサーと非インフルエンサーの非対称性を、「不可逆性」という観点から見直すとき、私たちはどこから手をつければ、この一方向の構造に少しでも「やり直し可能性」を埋め込むことができるのだろうか。

読書ブログを通じて浮かび上がる小さな思索の断片を、これからも綴っていきたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。必須項目には印がついています *

© 2025 ラボ読書梟 | WordPress テーマ: CrestaProject の Annina Free