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新・読書日記656(読書日記1996)

読書ブログという形をとりながら、私自身の思索と読書体験を交差させてみたいと思います。

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日記

今日は、妙に線がつながる読書だった。トルストイ『復活 下』と、マンデルブロ『フラクタリスト』と、雨宮処凛『非正規・単身・アラフォー女性 「失われた世代」の絶望と希望』。並べてみるとバラバラなのに、読み終わって机の上を見下ろすと、三冊がひとつの問いをぐるぐると指し示しているような感覚があった。人はどう「責任」を取るのか、その責任はどこまでが個人で、どこからが制度や社会なのか──そんなことばかり考えて、結果的にもやもやした一日になった。

『復活 下』は、読みながら何度もネフリュードフの目線と自分の目線が重なるような感覚があった。彼の「このままではいけない」という違和感や、過去の加害をどう受け止めるのかという問題意識には、素直に共感する。あの、社会の不正に気づいてしまったあと、もはや元の世界には戻れない感じ。周囲の人間が、自分の中では「もう見過ごせない」ものを、当然の前提で受け入れて平然と生きているときに覚える息苦しさ。そういうところは、正直言って他人事とは思えない。

しかし、そのネフリュードフが選ぶ「結婚」という決着のさせ方には、どうしても引っかかりが残る。カチューシャへの罪滅ぼしとして彼女との結婚を決意する、その姿は一見、自己犠牲的にも見える。だけど読み進めれば進めるほど、それがどこか彼自身の救済のための「物語」として組み立てられているような気がしてならない。罪を償う自分、責任を取る自分という役柄を引き受けることで、彼は彼なりの「納得」を手に入れようとしているのではないか。結婚が、彼にとっての一種の自己物語のクライマックスとして消費されているようにも感じてしまうのだ。

もちろん、十九世紀ロシアの小説に、現代日本の感覚をそのまま持ち込んでジャッジしても仕方がない。でも、「罪滅ぼしとしての結婚」にどこかエゴイズムが滲むように感じてしまうのは、どうしても否定できない。結婚を、自分の罪と向き合うための装置として選び取ることには、それ自体、一種の暴力性が含まれているように思う。相手は生身の人間なのに、彼女との関係が、彼の内面のドラマのための舞台装置になってしまっているのではないか。そう考えだすと、ネフリュードフの「誠実さ」はたしかにあるのだけれど、その誠実さもまた、彼個人の物語にうまく回収されていく自己完結性を帯びているように見えてくる。

そうやってネフリュードフの「責任の取り方」を考えていたところに、雨宮処凛の本を読んだものだから、頭の中で「責任」という言葉が別の方向から騒ぎだした。この本に出てくる非正規・単身・アラフォー女性たちは、多くが最初から「敗者」だったわけではない。むしろ二十代の段階では、それなりに正社員として働いていた人たちが多い。職場のトラブル、ハラスメント、激務、あるいはどうしようもない違和感や不満。それらに耐えきれず、ある時点で会社を辞める。そのプロセスの描写を読んでいると、「わかるよ」とうなずいてしまう。私自身、二十代は似たようなところをうろうろしていたので、「なぜ辞めたのか」の部分については、責める気持ちはまったく起きない。

問題は、そのあとだ。正社員を辞めたあと、彼女たちの多くが「時給の高さ」に惹かれて派遣の仕事を選ぶ。ここで私は、読んでいて何度もため息をついた。派遣の時給が高いのには理由がある。いつでも切れるという「雇う側のメリット」が上乗せされているからこその高時給なのだという、本質的な構造が見落とされている。だから、契約を切られたとき、彼女たちは深く傷つきながらも「仕方がない」と受け入れざるをえない。高時給と引き換えに差し出していたものが何だったのか、事後的に突きつけられるかたちになってしまうのだ。

これはもちろん、個人の「リテラシー不足」だけで説明できる問題ではない。そもそも、いつでも切れる不安定な雇用形態に、生活を支えるレベルの仕事を大量に押し込んでいく制度を作り、その上で「自己責任」の名のもとに放置してきた国と社会の責任は重い。非正規雇用を広げておきながら、そのリスクの大部分を個人にかぶせる仕組みを黙認してきたことに対して、私も読んでいて怒りを覚えた。彼女たちが傷ついて当然だ、とはまったく思わない。制度の側に明確な加害がある。

ただ同時に、私の中に別の種類の苛立ちも、じわじわと湧いてくる。派遣で少し事務をかじっただけで、「社労士とろうかな」と軽く言えてしまう、その感覚に対する違和感である。もちろん、資格を目指すこと自体を笑うつもりはない。何かを変えたい、今の自分をどうにかしたいという衝動から、資格や勉強に手を伸ばすことはよくある。でも、社労士という資格の中身や難易度、実務のリアリティをほとんど知らないまま、「今の延長線上の少し上」にそれを置いてしまう、その距離感のズレに、どうしても引っかかってしまうのだ。

この「制度への怒り」と「個人の非現実的な自己イメージ」への苛立ちが、同時に自分の中に共存してしまうところが、今日一番もやもやした部分かもしれない。制度は明らかにおかしい。非正規を前提にした労働市場の構造も、派遣会社のビジネスモデルも、そこに人間の生活や身体や時間をどう組み込んでいるのかを考えたら、怒りたくなるのは当然だ。その一方で、当事者の側も、自分の置かれている位置や使われ方をきちんと理解しないまま、「高時給」や「なんとなく手が届きそうな資格」にすがってしまうところがある。それはかつての自分自身の姿でもあるからこそ、余計に目をそらしづらい。

ネフリュードフは、自分が加害者だったことを自覚し、そこから「どう償うか」を考え抜いた末に、結婚という選択をする。そこにはたしかに、彼なりの覚悟がある。でも、その覚悟の行き先が、結局は自分の物語の完結に回収されていく危うさもある。一方、非正規の物語では、個人はしばしば「被害者」として描かれるが、その人びともまた、自分の人生をどう物語化しているのかという問題からは逃れられない。自分は本当は正社員になれる力があったのに、運が悪かっただけだ、と考えるのか。派遣をバイトの延長くらいに思い込むことで、リスクの大きさを見ないようにするのか。あるいは、「資格さえ取れば何とかなる」というストーリーに自分を乗せてしまうのか。

そう考えると、「責任」とは必ずしも、法的な線引きだけで決まるものではないのだと改めて感じる。制度を作った国や企業には、もちろん構造的な責任がある。しかし同時に、私たちは自分で自分の生をどう物語るかについて、ある程度の責任を負わざるをえない。ネフリュードフは、罪を犯したあとの人生をどう物語るかを必死に探している。その姿には共感するけれど、その物語が他者を巻き込んで完成してしまうところに、私は違和感を覚える。同じように、非正規の当事者たちも、過酷な環境の中で、何とか「これでいいのだ」という物語を自分に与えようとしている。それが高時給信仰だったり、資格万能論だったりする。

机の端に積んであるマンデルブロ『フラクタリスト』は、今日はまだ本格的に感想を書くところまでたどりついていないのだけれど、タイトルを眺めているだけで、頭の中に「フラクタル」という言葉が浮かんでくる。自己相似的なパターンが、スケールを変えながら繰り返される図形。よく見ると、ネフリュードフの罪滅ぼしの物語も、非正規雇用の構造も、別のスケールで同じような「繰り返し」を抱えているのかもしれない。個人が自分を救うために組み立てる物語と、社会が労働者を使い捨てるために組み立てる仕組み。そのどちらにも、「誰かを代償にして成り立つ救済」というフラクタルなパターンが潜んでいるのではないか、とぼんやり考えた。

そんなことを一日中ぐるぐると考えていたら、結局、「じゃあ自分はどう責任を取るのか」という問いが、自分の足元に返ってきてしまう。ネフリュードフのように、誰かを巻き込むかたちで自己救済の物語を組み立てることだけはしたくない。でも、制度のせい、国のせい、時代のせいだけにして、自分の選択や認識の甘さから目をそらし続けるのも、きっと違う。非正規雇用の構造に怒りながら、その一方で「高時給だからまあいいか」と目をつぶっていた過去の自分もたしかにいた。その矛盾を抱えたまま、どう生きていくのか。

トルストイとマンデルブロと雨宮処凛という、一見ばらばらの三冊が、私の中では「物語」と「責任」と「制度」の話として奇妙に響き合った。ネフリュードフのエゴイスティックな罪滅ぼしに眉をひそめながら、非正規の当事者の甘さに苛立ちながら、それでもどちらの側にも自分の影を見てしまう。このもやもやを、次にどこへ運んでいけばいいのか。私は、どんな物語の作り方なら、自分も他者もあまり傷つけずにすむと考えているのだろうか。

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読書ブログを通じて浮かび上がる小さな思索の断片を、これからも綴っていきたいと思います。

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