「いや、普通こうでしょ?」
この一言が出てきた瞬間、場の空気は一気に固くなる。「普通」という言葉は、ふだんは当たり前の確認のような顔をしているが、使い方を少し間違えると、それはあっという間に「裁きの言葉」に変わる。
令和の虎のようなビジネス番組を見ていると、この「普通こうでしょ」構文がやたら多用される場面に出くわす。「社会人なら普通こうでしょ」「起業家なら普通このくらいの覚悟はあるでしょ」「普通、親に頼らないでしょ」。そのとき画面のこちら側でうっすらと感じる違和感――あれは、単なる性格のキツさではなく、「普通」の不可逆性に対する本能的な警戒なのかもしれない。
「普通こうでしょ」構文のテンプレ
この構文には、だいたい次のようなテンプレがある。
① 先に「基準」が提示される
「社会人なら」「男なら」「女なら」「親なら」「起業家なら」など、あるカテゴリーに属する人間の「あるべき姿」が、さらっと前提として差し出される。
② それが「普通」として宣言される
「普通こうでしょ」「常識でしょ」「当たり前でしょ」と続くことで、その基準はただの意見ではなく、「誰もが共有しているはずの標準」に格上げされる。
③ そこから外れる人が『異常枠』に追いやられる
その基準に届かない人は、「甘えている」「本気じゃない」「頭がおかしい」といったラベルで、あっさりと「普通の外側」に追い出されてしまう。
④ ラベリングは一方通行で、ほぼ訂正がきかない
一度「普通じゃない」とされると、そのラベルを引き剥がすのはかなり難しい。説明しても、「言い訳」として処理されがちである。ラベルを貼る側は軽い気持ちでも、貼られた側にとっては、その後も尾を引く。
令和の虎的な場面でやっかいなのは、この構文が「厳しさ」「リアリズム」「ビジネスの現実」とセットにされている点である。「優しさ」で語られる「普通」であれば、まだ救いがある。だが、あの文脈では、「普通こうでしょ」はしばしば「ここに合わせられないなら、お前は失格だ」という宣告とセットになっている。
「普通」とは、誰の普通なのか
可逆性功利主義の観点から見ると、この「普通こうでしょ」は、かなり危うい道具である。
第一に問うべきは、「その普通は、誰の経験をもとにしているのか」という点である。
たとえば、ある投資家が「起業家なら、普通このくらい自分の生活を犠牲にするでしょ」と言うとき、その「普通」は、自分の成功体験や、自分の属してきた業界の空気を前提にしている。家族構成も違えば、貯金額も、健康状態も、持っているネットワークも違う。それでもなお、「自分の経験」がそのまま「普通」にまで引き上げられる。
しかし、その普通からこぼれる人はたくさんいる。
病気を抱えている人、家族の介護をしている人、借金を背負っている人、マイノリティとして日常的に差別にさらされている人。そうした人々にとって、「全力で突っ込め」「全部賭けろ」「普通そのくらいやるでしょ」という基準は、命を削るような要求になりかねない。
にもかかわらず、「普通こうでしょ」という言葉は、その違いを一気に塗りつぶしてしまう。ここにすでに、一つの非対称性がある。「普通」と言う側は、自分の前提をわざわざ説明しなくてよいが、その普通からこぼれる側は、自分の事情を説明しつづけなければならない。説明に失敗すれば、「言い訳」扱いである。
不可逆性としての「普通」ラベリング
この非対称性は、きわめて不可逆的である。
「普通こうでしょ」と投げた側は、数分後にはその場面を忘れてしまうかもしれない。バラエティ的なノリで、あるいは「視聴者に喝を入れる演出」として、サラッと口にしたにすぎない。しかし、その言葉は、受け取った側にとっては長く残る。
自分は「普通ではない」と宣告されたのだ、という感覚
どんなに努力しても、この人たちの基準には届かないのだ、という諦め
自己否定と怒りと恥が、ぐちゃぐちゃに混ざった感情
そうしたものが、じわじわと沈殿する。
ここで生じている不可逆性は、「一度貼られたラベルは、発言した本人が忘れたあとも、貼られた側の中で生き続ける」というかたちで現れる。
さらにやっかいなのは、「普通こうでしょ」と言う側が、その不可逆性にあまり自覚的ではない点である。「厳しいことを言ってやった」「本音を言ったまでだ」という感覚で終わってしまう。自分が投げた言葉が、どれだけ長期的な影響を残すのか、ほとんど想像されない。
功利主義の落とし穴としての「普通」
功利主義は、気を抜くとすぐに「普通」の味方をしてしまう。
「多くの人がそうしているから」「社会全体の効率が上がるから」という理由で、「普通」とされる行動様式を正当化しがちである。令和の虎的な文脈で言えば、「普通こういう覚悟がある人の方がビジネスで成功しやすい」「普通こういう働き方が結果を出す」という形で語られる。
しかし、可逆性功利主義は、ここで一つ余計な問いを挟む。「その普通からこぼれる側に、自分が立たされたときでも、その基準を受け入れられるか」と。
単身で、健康で、親の支援もあり、そこそこ学歴もあり、人脈もある――そういう条件のもとでは、「普通こうでしょ」と言える基準はぐっと高くなる。だが、自分が病気を抱えていたら、シングルケアラーだったら、精神的にギリギリの状態だったら、その「普通」に耐えられるだろうか。
もし耐えられないのであれば、その「普通」は、じつは「一部の人にとっての普通」にすぎない。にもかかわらず、それを「みんなの普通」として押し出すことは、功利主義としてもかなり危うい行為である。
可逆性から見た「普通」の扱い方
では、可逆性功利主義の観点からすると、「普通こうでしょ」という言葉は、どう扱われるべきなのか。
まず大事なのは、「普通」を事実の記述ではなく、「仮の基準」として扱うことである。
「自分の経験では、こういうやり方が多かった」「この業界では、だいたいこういうパターンが主流だ」というレベルであれば、それは一つの情報に過ぎない。しかし、「普通こうでしょ」と言った瞬間に、それは「従うべき規範」に変わる。
可逆性功利主義的には、少なくとも次のような配慮が必要になる。
① 「普通」を主語にしないで語る
「普通こうでしょ」ではなく、「自分はこう思う」「この業界ではこうされることが多い」という言い方にとどめる。主語をズラすだけで、ラベリングの圧力はかなり和らぐ。
② こぼれる側のコストを見積もる
その「普通」を押し通したときに、そこからこぼれる人たちが負う負担はどのくらいか。精神的なダメージだけでなく、健康、生活、将来の選択肢といったレベルで、コストを想像し直してみる。
③ 立場を入れ替えたときの受忍可能性を問う
自分がこぼれる側に回っても、「そう言われても仕方ない」と本当に思えるか。思えないのであれば、その「普通」を他人に押しつけることは控えるべきである。
こう書くと、ただのマイルド化・ポリコレ化の話に聞こえるかもしれない。しかし、可逆性功利主義が気にしているのは、「きれいな言葉遣い」そのものではない。問題は、「言葉の不可逆性」をどこまで自覚した上で使っているか、という点にある。
令和の虎的な場面で飛び交う「普通こうでしょ」は、ある種の爽快さやカタルシスを伴う。視聴者は「よく言ってくれた」とスッキリするかもしれない。しかし、その裏側には、「その普通からこぼれた瞬間に、もう戻ってこられない人たち」が確実に存在している。
私たちは、その不可逆性をどこまで引き受ける覚悟で、「普通」という言葉を口にしているのだろうか。もし自分が明日、その「普通」からこぼれる側に回ったとき、その基準をまだ「正しい」と言い続けることができるだろうか。

それって不可逆性ですよね?「普通こうでしょ」と言う側とその普通からこぼれる側の非対称性
本を読むこと、そして書き残すこと――それを読書ブログとして続けているのが「読書梟」です。
次の記事でもまた、読書ブログならではの読後の余韻を記していければ幸いです。