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感想・日記
今日の読書日記は、「ヘイト本」という言葉への違和感から始まった一日である。ある人が、とあるジェンダー本を「トランスヘイト本」だと断じているのを見かけた。たしかに、ジェンダーをめぐる本棚の前には、いつもどこか重たい空気が立ちのぼっている。「差別」「被害」「加害」「構造」「生殖」「身体」「家父長制」――そういった言葉が背表紙の上にうっすらと霧のように浮かんでいるようで、ただ立っているだけで、どこかドロドロした何かに足首をつかまれる感覚がある。そこにさらに「ヘイト」というラベルが貼りつけられると、何かが決定されすぎてしまう。Aという価値観を持つ人が、Bという価値観を好まないことなど、この世には無限にあるはずである。それをすべて「ヘイト」と呼び始めれば、世界中の本はほとんどヘイト本になってしまうのではないか。そう考えると、さすがにどこかがおかしいと感じざるを得ない。
この違和感を抱えたまま、今日はプラトン『饗宴』を読み終えた。自分でも不思議なのは、私が選んで読む本は、いつもどこかでゆるやかにつながっているということである。ヘイトだのジェンダーだのと言っているそばから、古代ギリシアの饗宴である。だが『饗宴』の世界は、現代のことばで言えば「同性愛」と呼ばれる関係を前提にしているし、その愛が「善」や「美」とどのように結びつくのかを真剣に論じている本でもある。つまり、現代風に言えば「性的マイノリティ」「年齢差」「権力関係」の問題系が、かなり生々しい形で露出しているのである。
とはいえ、今日の読書体験として言えば、『饗宴』はプラトンの著作のなかでもかなり抽象的であった。『国家』も『法律』も『ゴルギアス』も、それなりに読み歩いてきたつもりであるが、今回ばかりは霧のなかを手探りで歩いているような感覚が強かった。愛についてのスピーチが次々とリレーされ、エロスを賞賛し、揶揄し、神話で飾り立て、最後にはソクラテスがディオティマの話を引きつぐ。それらの声が、どこか一つの山頂に向かっているようでいながら、実際には山脈の峰をいくつもひたすら渡り歩いているかのようである。
私が今回、『饗宴』を手に取った理由は、いわゆる「プラトニックラブ」というものをもう少しちゃんと知りたい、という単純な動機からであった。現代日本で「プラトニックラブ」と言えば、肉体を離れて、精神的なつながりだけを大切にする清らかな愛、というイメージが強い。高校生向けの恋愛マニュアルにさえ出てきそうな、いささか甘酸っぱい響きのある言葉である。しかし、実際に『饗宴』を読み終えてみると、そこに描かれているエロスは、決して「精神的な愛」だけに還元できるようなものではなかった。
今日の時点での私の暫定的な解釈を言葉にすると、プラトンにおけるエロスは、むしろ「若さと生産性への欲望」を出発点にして、それをどこまで高みに折り返すことができるか、という運動として描かれているのではないかということである。「エロスは若さを好む」と彼らは言う。若い少年の身体は美しく、未来を孕み、生産性に満ちている。生命としての「老年」は、生産という観点からすれば、すでに実りを終えた季節であり、「善いもの」としては位置づけが難しい。人は善いものを欲する存在である以上、若い少年を愛するのは自然であり、何が悪いのか――ざっくり言ってしまえば、そのような観点がにじんでいると、私は今日読んだ範囲では理解した。
こう考えてみると、現代の「プラトニックラブ」のイメージ――つまり、肉体を否定し、精神だけが清らかに結びつくような愛――は、プラトンのエロスとかなりずれているのではないかと思えてくる。『饗宴』で語られているのは、むしろ肉体的な魅力、若さの輝き、欲望そのものを出発点としつつ、それをどこまで「魂の美」「徳」「知」へと昇華できるかという、欲望の教育の物語である。少年の身体を欲することがそもそも問題なのではなく、その欲望が、ただ肉体の占有や消費で終わるのか、それとも魂や知の領域へと転換されるのか――そこにこそ評価の軸がある。そう読むと、いわゆる「精神的な愛」という現代のプラトニックラブ像は、エロスの運動の後半だけを切り取って神聖化したものにすぎず、その背後にある生々しい欲望と若さへの執着を、意図的に見えなくしてしまっているとも言える。
同時に、この「若さ」と「善」の結びつきは、現代の私から見ると、かなり居心地の悪いものである。老いが「善」と距離を置かれ、「生産性の低さ」と結びつけられてしまうとき、そこには明らかに価値の序列が生まれてしまうからである。生産的であること、増やすこと、残すことが善である、という観念は、現代の資本主義社会にも、実はまだしっかり根を張っている。仕事ができる若者、再生産可能な身体、魅力ある外見。そこから外れていく者は、どこか「善」からも少しずつ外れていくかのような、うっすらとした感情の流れがある。そう考えると、『饗宴』の世界は遠い過去のものというより、現代の「生産性」と「価値」の結びつきが露骨に照らし出された鏡のようにも見えてくる。
もし、ここで「若さこそ善であり、老いは価値の低下である」という思想まで含めてすべて「ヘイト」と呼んでしまうなら、『饗宴』のような古典は一気にヘイト本の棚行きになるだろう。少年愛の文化的コンテクストも、階層構造も、身体観も、現代の倫理基準から見れば、危うい要素はいくらでも見つかる。それでも私たちがこれを古典として読み続けているのは、そこに描かれた価値観をそのまま肯定するためではなく、むしろその危うさ込みで、人間が「善いものを欲する」とはどういうことかを問い直すためであるはずだ。ヘイト本と呼びたくなる衝動と、歴史的テクストを「その時代の感覚ごと」読む必要性。その両方のあいだで、私は今日も揺れている。
そんなことを考えながら、『ジェンダーの終焉』を少しだけ読み始めた。この本も、トランスヘイト本として名指しされることがあるらしい。まだ冒頭をなでる程度しか読んでいないので、内容について断定めいたことを言うつもりはない。ただ、ジェンダーというテーマそのものが、すでに「正しさ」と「怒り」と「傷つき」と「構造」という重たい言葉の束を背負っていて、ページをめくる前から、どこか胃のあたりがきゅっと縮むような感覚がある。ジェンダーとヘイトは、切っても切れない仲である。ジェンダーの本棚に立つだけで、ヘイトという単語が、まだ読んでもいない本の影からじっとこちらを見ているような気さえしてくる。だからこそ、本を開く側の心身のコンディションが問われるのだと思う。
今週は残業続きで、身体のほうが先に悲鳴を上げつつある。そんな状態で、ジェンダー棚のヘドロの前に立ち、ヘイトか否かを見極めるだけの気力は、さすがに残っていない。ページの向こうにいるのは、生きた当事者たちの身体であり、不安であり、怒りであり、そして理論である。その両方をまともに受け止めるには、それなりの体力がいる。今日は少し読んだところで、本を閉じることにした。ヘイトか否か、という判定を、疲れた頭でうっかり乱発してしまうくらいなら、判断を保留したまま、いったん本を棚に戻すほうがまだ誠実なのではないか、と思ったからである。ヘイト本のラベルは、本に対してというより、自分の側の余裕のなさの反射として貼られることもあるのではないか――そんなことをぼんやりと考えた。
そんなふうに気力が尽きかけたところで、執行草舟『日本の美学』を開いた。そこで出てきた「体当たりしか考えていない」という一文に、思わず背筋を伸ばされた。プラトンのエロスも、執行草舟の「燃焼」も、結局のところ「安全な精神的高み」から静かに世界を見下ろす態度ではない。欲望や衝動や、みっともないほどの偏りを抱えたまま、世界にぶつかっていくこと、その痕跡として言葉を残すこと。それが「美学」であり、「エロス」であり、「生」の側に立つということなのだと、執行の言葉は容赦なく告げてくる。「体当たりしか考えていない」という一句の前で、私は、今日ほとんど何にも体当たりできていない自分の一日を思わず振り返った。
だが、それでも、仕事で疲れた身体を引きずりながら、家にたどり着き、プラトンを開き、ジェンダー本を数ページだけでも読み、執行草舟の一節に引っかかり、こうして読書日記を書いているという事実自体が、私なりのささやかな「体当たり」なのかもしれない、とも思う。完全燃焼には程遠い、湿り気を帯びたマッチのような火種であっても、それをまったく擦らずに終えるのか、かろうじてこすって火花だけでも飛ばすのか。その差は、案外小さくないのではないか。
帰り道、ふと立ち寄ったブックオフで、キケローのレアな本を見つけた。棚の隅に、ぽつんと一冊だけ挟まっているその背表紙を見つけた瞬間、今日一日のなかでいちばん純粋な意味でテンションが上がったと言ってもよい。古代ローマの弁論家は、プラトンのエロスとも、現代のジェンダー論争とも、直接には何の関係もないように見える。だが、「言葉によって人を動かす」という一点においては、エロスもヘイトも弁論も、どこか同じ地平に並んでいる。誰かの身体を欲し、その心を動かし、社会の規範を書き換えようとする力。その力の使い方をどう考えるかという問いの前では、古代の饗宴も、現代のジェンダー棚も、ブックオフの片隅も、奇妙な同じ明るさのなかに置かれる。
ヘイト本というラベル、プラトンの少年愛の美学、ジェンダーとヘイトの濃密な結びつき、執行草舟の「体当たりしか考えていない」という宣言、そして中古本の棚で出会ったキケロー――それらが一日のあいだに、私の頭の中で緩やかに接続されてしまうのは、もはや私の読書の癖である。ラベルを貼りたくなる衝動と、ラベルを剥がして中身を見ようとする欲望。そのどちらにも引き裂かれながら、私は今日もページをめくっている。そう考えるとき、私が向けているエロスは、本当に「善いもの」に向かっていると言えるのだろうか、それとも単に、自分が見たいものだけを見せてくれる本にしか体当たりしていないのだろうか。
