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それって不可逆性ですよね?パワハラを受けた側のキャリア断絶と「指導だった」の一言で済ませる側の非対称性

読書ブログという形をとりながら、私自身の思索と読書体験を交差させてみたいと思います。

1. 「殴り合いで終わった昔」と「キャリアが飛ぶ今」
昔は殴り合いで決着がついた、というノスタルジーはよく語られる。しかし冷静に考えると、それは「殴り合いをしても、その後の人生がまだなんとかなる」という前提があったから機能していたともいえる。
ところが今、職場で手を出したらどうなるか。
・懲戒処分
・最悪、逮捕歴
・転職時に説明を求められる
・「扱いづらい人材」としてラベリングされる
若い側が暴力で「やり返す」ことは、ほぼ即座に人生レベルの不可逆リスクに直結する。一方で、パワハラをする側はどうか。
・「あれは指導のつもりだった」
・「コミュニケーションの行き違い」
・「熱心さゆえに言い過ぎた」
と言い訳する余地がたっぷり残されている。
つまり、「殴り返せないように制度を固めておいて、その上で一方的にパワハラできる」構造になっている。これを「若者が脆弱になった」と評するのは、かなり雑で失礼な話である。
2. 暴力に「脆弱」なのではなく、不可逆性をよく知っている
今の若い人は、暴力がどれだけ「損な手段か」を知っている。
一度バズった炎上、拡散された動画、消えない検索結果。どれも不可逆である。
・殴り返せばスッキリする
・やり返せば対等だ
という物語が、もう成立しにくい。
やり返した瞬間、被害者が「厄介者」にすり替えられるのを、なんとなく肌で知っているからである。
これは「過保護」のせいではなく、不可逆リスクの高さに対して敏感になった結果とも読める。
暴力に「脆弱」なのではなく、「殴り合いで済まない時代」に適応しているとも言えるのではないか。
3. パワハラの一撃で飛ぶものと、飛ばないもの
パワハラを受けた側から飛ぶものは、多い。
職歴の連続性
自信と自己評価
心身の健康
「社会はそこそこフェアだ」という前提
一方、パワハラする側から飛ぶものは、思ったほど多くない。
上司の椅子
給与
評価権
同じことを繰り返せるポジション
多くのケースで、「注意を受けた」「指導を見直すよう言われた」で終わる。
つまり、
やられた側:一発でキャリアが折れる可能性
やらかした側:一発では何も折れない、せいぜい「学び」
という非対称が、職場に埋め込まれている。
それを「昔は殴り合いで終わったのに、今は弱くなった」と言い換えるのは、不可逆性を見ないふりをしているだけである。
4. 「指導だった」で帳尻を合わせる言葉のトリック
パワハラ問題が表に出たとき、よく出てくるのがこの一言である。
「あれは指導のつもりだった」
このフレーズの怖いところは、
「指導」というラベルを貼り直した瞬間に、不可逆な損害が「教育プロセス」の一部に回収されてしまうことだ。
・人が潰れたことも
・辞めざるをえなくなったことも
・長期の通院が必要になったことも
「指導が行き過ぎた、反省します」でパッケージングされると、その損失が「組織の学び」に変換されてしまう。
ここでもまた、
やらかした側の「学び」と
やられた側の「終わり」
が平然と同じテーブルに並べられる。
これこそが不可逆性の踏み倒しであり、若い人ほど割を食う構造である。
5. 「過保護かどうか」ではなく、「可逆かどうか」で見る
本当は、「今の若者は過保護だ」と言う前に、問い方を変えたほうがいいのだと思う。
その経験はやり直しのきくものか
失敗しても立て直せる仕組みがあるか
片側だけが一方的に壊れる構造になっていないか
つまり、過保護かどうかではなく、可逆かどうかで見るべきである。
・ぶつかり合いから学べ、というなら、全員に再起のチャンスがある設計がいる。
・「社会に出たら理不尽がある」と言うなら、その理不尽が誰か一人の人生を破壊しないように、制度側の冗長性がいる。
そこを整えずに「耐性が足りない」「過保護だ」と言うのは、ただ単に不可逆な損害のコストを、これからの世代に押し付けているだけではないか。

読書ブログを通じて浮かび上がる小さな思索の断片を、これからも綴っていきたいと思います。

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