長い長い自伝を読む、という行為は、たいてい「時間がある人の道楽」に分類されがちである。休日にコーヒーを淹れ、机に向かい、分厚い本の背を撫で、長い人生に浸る。そういうイメージが先行する。だが、私は最近まったく逆のことを思うようになった。長い自伝は、むしろ時間がない人間のための本である。忙しい平日に、通勤中の電車と帰宅の電車で、ちまちま読めばいい。そういう読み方で、意外なほど現実的に「読めてしまう」からである。
自伝が分厚いのは、だいたい同じ理由である。人生は長く、しかも一見すると無駄で、枝分かれしていて、後から見てようやく意味が立ち上がる。だからページ数が増える。ところが、電車の中で読むと、この「増えすぎたページ」が、むしろ都合よく分割される。電車の読書時間はだいたい短い。座れた日は少し長い。立っている日は短い。遅延があれば延びる。つまり毎日違う。だが、この不安定さこそが、自伝向きなのである。自伝は一章あたりが短いことが多く、日付や出来事で細かく区切られている。途中で中断されても、次の日に再開しやすい。小説のように「盛り上がっているところで切られる苦しみ」が少ない。むしろ、途中で切られることで、人生の断片が断片のまま手元に残り、それが次の日の断片と連結して、ゆっくりと一人の人間の輪郭をつくっていく。
私はここで、少し乱暴に計算してみる。通勤の片道が仮に30分だとする。往復で60分である。もちろん、毎日きっちり読めるわけではない。スマホを見てしまう日もある。疲れて文字が滑る日もある。乗り換えで集中が切れる日もある。それでも、読書に使える時間が往復で20分〜30分くらい確保できる日は意外と多い。20分を最低ラインに置こう。読書速度は人によって違うが、仮にゆっくりで1分あたり1ページ、つまり20分で20ページとする。これでもかなり慎重な見積もりである。すると、1日20ページ。30日で600ページである。600ページというのは、長い自伝としては十分に「分厚い」部類に入る。しかもこれは最低ラインの計算だ。調子のいい日は30ページ、40ページ進む。座れた日は進む。休日に少し足せば、さらに伸びる。つまり「分厚い自伝=時間のある人だけ」という思い込みは、実務的に崩れる。
ここで重要なのは、「毎日たくさん読む」ではない。「毎日少しだけ読む」である。ちまちま、が勝つ。ちまちまというのは、実はかなり強い。継続の強さは、意志の強さではなく、摩擦の小ささで決まるからである。通勤中の電車は、すでに存在する時間である。そこに読書を差し込むだけなら、新しく何かを捻出する必要がない。家に帰ってから「よし読むぞ」と構えると、疲れが勝つ。だが電車の中は半ば強制的に「手持ち無沙汰」が生まれる。スマホに吸われるにせよ、本に吸われるにせよ、何かに吸われる。その吸引の向きを、少しだけ本へずらす。それだけで30日後に、自分が600ページ分の人生を通過している。これは小さな奇跡である。
そして、自伝を電車で読むことには、もう一つ利点がある。自伝は「他人の人生」であると同時に、「自分の人生の鏡」でもある。電車の中という半公共空間は、鏡を見るのに向いている。家だと鏡は近すぎる。感情が入り込みすぎる。だが電車の中だと、周囲の雑音があるぶん、感情が過熱しにくい。適度に冷めた距離がある。その距離が、自伝の読み方を「感動」だけで終わらせない。あの人の判断はなぜそうなったのか。何を信じたのか。どこで賭けたのか。どこで逃げたのか。そういう問いが、静かに立ち上がる。通勤という日常のループの中で、他人の人生の変曲点を読むと、こちらの人生の変曲点も、少しだけ輪郭を帯びる。これは読書の効用というより、生活の再編集である。
さらに言えば、長い自伝を読むという行為そのものが、「時間がない」という焦りに対する反論になる。忙しいと、人は短い情報だけを摂取するようになる。要約、箇条書き、結論、結論、結論。だが人生は要約できない。いや、要約はできるが、要約した瞬間に失われるものがある。自伝が教えてくれるのは、成功の法則ではなく、迂回と停滞と誤解と運の悪さと、その中でなお続く執念である。つまり、人生の「非効率」が人生をつくるということだ。効率化された読書だけをしていると、こちらの生活まで効率化されて、空っぽになってしまう危険がある。だからこそ、通勤の電車で分厚い自伝を読むことは、単なる時間術ではない。空っぽ化への抵抗である。毎日ちまちま読むことで、こちらの生活に「長い時間の手触り」を戻す。30日後に本を閉じたとき、読んだのは他人の人生なのに、なぜか自分の時間感覚が少し変わっている。この変化は、地味だが効く。
もちろん、うまくいかない日もある。疲れて1ページも進まない日もある。座れずに本を開けない日もある。スマホに負ける日もある。だが、ここでも「ちまちま」の思想が効いてくる。読めない日はゼロにしていい。次の日に戻ればいい。自伝は逃げない。ページは逃げない。焦りが逃げるだけである。大事なのは、30日で読み切ることそれ自体より、「30日で読み切れる」と知ってしまうことだ。知ってしまうと、分厚い本への恐怖が消える。恐怖が消えると、選択肢が増える。選択肢が増えると、人生が少しだけ可逆になる。読書は、こういうふうにして生活の設計へ侵入してくる。
結局、長い長い自伝を読むコツは、読書のコツではなく生活のコツである。特別な時間を作らない。すでにある時間を使う。毎日少しだけ読む。ちまちまをなめない。30日で読み切れると知る。そうすれば、分厚い本は「重荷」ではなく「伴走」になる。通勤電車の揺れの中で、人は他人の人生と並走し、自分の人生の速度を少しずつ調整していく。
さて、ここで私は自分に問いかけてみたい。もし通勤の電車で、毎日ちまちま他人の人生を読み通せるのだとしたら、その30日後にこちらの人生は、どんな問いを持つようになっているのだろうか?
