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「「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか」ではなく、「面白い人」は、なぜその本に向かうのか。

読書ブログという形をとりながら、私自身の思索と読書体験を交差させてみたいと思います。

「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか――このタイトルの新書が売れている。発売日は2025年9月18日、著者は文芸評論家の三宅香帆氏である。新潮社+1 口コミで広がり、部数やランキングの話も飛び交っている。プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES+1
くやしい、というより、胸の奥がザラつく。なぜならこのタイトルが示しているのは、単なる読書術ではなく、いまの時代の欲望そのものだからである。「話が面白い人になりたい」「雑談がうまくなりたい」「会話のネタが欲しい」「コンテンツを言語化して、SNSや仕事の場で“手早く”評価されたい」。その切実さは分かる。分かるからこそ、くやしい。

ただし、ここで因果をひっくり返したい。
多くの自己啓発やスキル本は、こう言う。

読む(鑑賞する) → 言語化できる → 話が面白くなる

実際、その新書も「鑑賞の技術」や、読んだもの・観たものを話せる形にする工夫を示す内容だと紹介されている。プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES+2本の要約サービス flier(フライヤー)+2
だが、読書梟的には、ここで矢印を逆に置く。

面白い(面白くならざるを得ない) → だから読む(鑑賞に向かう)

つまり「読むから面白くなる」のではない。
面白い人は、読書で面白くなったのではなく、面白くなるしかない圧を抱えているのである。読書は原因ではなく、徴候である。欲望の結果である。

では、その圧とは何か。何がその人を面白くさせ、何がその人を本に向かわせるのか。ここからが本題である。


1. 面白さの根は「技術」ではなく「摩擦」にある

面白い話には、必ず摩擦がある。矛盾、ズレ、失敗、恥、怒り、違和感、理解不能、制度の理不尽、人間関係の噛み合わなさ。そういう“引っかかり”がなければ、そもそも語る動機が生まれない。
だから「話が面白い人」は、最初から面白さを持っているのではなく、面白さを生む摩擦を抱え込んでいるのである。

読書とは、その摩擦を処理する装置だ。
情報収集や教養の足し算ではない。痛みの変換機である。摩擦があるから読む。摩擦があるから要約する。摩擦があるから言語化する。摩擦があるから書評や批評に触れ、別の視点を借りる。摩擦があるから、会話や雑談やコミュニケーションの場で「言いたいこと」が湧く。

ここが第一の逆転である。
ネタが欲しいから読むのではない。摩擦があるから読む。ネタは摩擦の副産物である。


2. タレブ的に言えば「身銭」が面白さを作る

タレブの語彙で言い直す。面白さは「Skin in the game(身銭)」から生まれる。
自分が賭けている。失敗したら痛い。外すと恥ずかしい。選択に責任がある。撤退にもコストがある。ここに凸凹がある。人生の地面が平らではない。だから言葉が必要になる。

身銭がない語りは、正しいことは言うかもしれないが、だいたい退屈である。なぜなら、語り手が火傷していないからだ。火傷していない人は、痛みの説明をする。しかし火傷した人は、痛みに殴り返す言葉を持つ。
読書梟さんがキケローで感じた「熱いもの」は、まさにこの系統である。苦痛の除去ではなく、徳・忍耐・精神力による克服が幸福だ、という圧。あれは“うまい説明”ではなく“生の姿勢”である。

ここで、面白さは「話術」ではなく「耐久力」に寄る。
言い換えれば、**面白い人は“うまく話す”のではなく、“うまく耐える”**のである。耐える過程で、言葉が研がれる。読書はその砥石になる。


3. 「誤配」がある人ほど、本に向かう

読書日記アプローチの核を置く。
形式にとって誤配であれ。

世の中には、形式が用意されている。ビジネスの場の話し方、雑談のテンプレ、プレゼンの型、SNSの“盛り”方、自己紹介の定型、コミュニケーションの作法。多くの人は、そこに自分を合わせる。合わせること自体は悪くない。だが、誤配する人がいる。どうしてもズレる。ズレが消えない。消そうとすると、むしろ痛くなる。

誤配する人は、たいてい本に向かう。
なぜなら、現実の会話の速度に追いつけないところで、読書は速度を落としてくれるからだ。人間関係が暴力的に感じるところで、文章は距離を取らせてくれるからだ。制度の理不尽が飲み込めないとき、歴史や哲学は「それが理不尽として反復してきた」ことを示してくれるからだ。
誤配とは欠陥ではない。読書へ向かわせるコンパスである。

そして面白さは、この誤配から立ち上がる。
「型」からズレた視点、常識から外れた比較、予定調和を壊す比喩。面白さは、いつも“ズレの回収”として起きる。笑いも、批評も、洞察も、たいていズレの発見である。

だからこう言える。

面白い人は、読書で面白くなるのではない。
誤配を抱えているから、読書が必要になり、結果として面白く見える。


4. 可逆性がある人だけが、読書を「実験」にできる

ここで可逆性の話を入れる。
読書が「うまく話すための道具」になった瞬間、人は失敗を恐れる。読んだのに話せない、言語化できない、要約が下手、レビューが薄い、語彙が足りない。こうして読書が評価装置になり、楽しさや好奇心が死ぬ。

可逆性とは、その逆である。
読書を“試行”として扱い、いつでも撤退できる状態に保つ。

  • 最後まで読まない自由(途中撤退)
  • 読まない期間があっても戻れる自由(再開)
  • うまく言語化できないままでもメモだけ残す自由(未完)
  • 誤読・読み違いを許す自由(訂正)
  • 「今の自分には合わない」を正当化する自由(保留)

この可逆性が、読書を反脆弱にする。
つまり、失敗しても壊れないどころか、失敗のログが蓄積して強くなる。読書日記とは、そのログの形式である。ここで面白さは「完成品」ではなく「過程の編集」になる。

面白い人が本に向かうのは、知識を取りに行くからではない。
自分の実験を繰り返すためである。実験があるから、言葉に“生々しさ”が宿る。雑談でも、プレゼンでも、会話でも、聞き手はその生々しさに反応する。これが「面白さ」の正体の一部である。


5. そして結局、「困っている人」が本へ行く

ここまでをまとめると単純である。
面白さの根には、だいたい「困り」がある。

  • 人と話すのが怖い/苦手(コミュニケーションの困り)
  • うまく言えない(言語化の困り)
  • 制度が納得できない(公共性の困り)
  • 自分の倫理が折れそう(責任の困り)
  • 世界が退屈に見える(感受性の困り)
  • 成功のテンプレに乗れない(形式の困り)

困りがあるから、本に向かう。
本は、困りを消さない。むしろ困りを増やすことすらある。だが、困りを「形」にする。困りを“問い”へ変える。問いを“文章”へ変える。文章を“共有可能なもの”へ変える。ここで初めて、私人の困りが公共性を持つ。面白さとは、しばしばこの公共化の瞬間に立ち上がる。

つまり、この記事の答えはこうである。

「面白い人」は、面白くなるしかない困りを抱えている。
その困りが、読むべき本を選ばせ、鑑賞や批評や要約を必要にさせ、
結果として“話が面白い”に見える。


読書日記アプローチとしての提案

最後に、読書日記アプローチとして、今日から使える「逆転の型」を置く。
スキルとしての読書術ではなく、摩擦→誤配→可逆性の型である。

  • 困り(摩擦)を一言で書く:「何に引っかかったか」「何が気持ち悪いか」
  • 誤配を許す:「型に合わない自分」を否定しない(むしろ主役にする)
  • 可逆的に読む:途中撤退・保留・再開・誤読・訂正のログを残す
  • 比喩を1つ作る:制度を物に例える、倫理を筋肉に例える、など
  • 問いで閉じる:答えを出すより、問いを残す(公共化)

この型で書かれた文章は、自然に「話のタネ」にもなる。
だがそれは目的ではない。目的は、困りを編集し、壊れずに生き延びることだ。面白さは、その副産物である。


売れている新書が「鑑賞の技術」「言語化の技術」「ネタに変える技術」を丁寧に示しているのは事実である。プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES+1 そして、ランキングや部数の伸びが示すように、多くの人がそれを必要としているのも事実である。プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES+1
だが読書梟としては、そこで終わりたくない。技術は大事だが、技術の前に、面白さを駆動する「困り」「身銭」「誤配」「可逆性」がある。その根を掘り当てない限り、面白さはテンプレ化して、すぐに枯れる。

では――あなたが本に向かうとき、あなたを動かしているのは「面白く見られたい」という欲望なのか、それとも、消せない摩擦を抱えたままでも生き延びるための、あなた自身の誤配と可逆性なのだろうか?

次の記事でもまた、読書ブログならではの読後の余韻を記していければ幸いです。

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