ラボ読書梟 (旧 はてなブログ大学文学部)

新・読書日記4

          菅 豊彦『道徳的実在論の擁護』勁草書房 (2004)

  

本書の「事実と価値」の章を読み込んだ。

混乱に次ぐ混乱。

自分はヒュームの法則を過大に捉えていたのか?

「道徳的反実在論者 v s道徳的実在論者」はどこまで戦いが続いていて、どちらが優勢なのか?

まだ決着はついていないのか?

  

本を読んで世界観が変わることがあるが、今もその感覚に似ている。ただ、自分があまりに無知すぎたので、情けなさも同時に感じている。

  

自分はヒュームの法則に囚われて誤解をしていた可能性がある。

事実から「~べき」を導けないがために、今ある事実(GDPはいくつだの、出生率はどうだの、いわゆるビッグデータのような定量的なもの)から演繹的に倫理を構想することは不可能ではないかと判断してしまっていた。

いや、普通の人なら何も問題はないかもしれない。

「それの何が問題なのか?」「現状を分析して何をすべきか考えて実行すればいいじゃないか」

自分は時代によって影響されない、プラトン的な不変性を求めていた節があった。

  

スコット・ジェイムズ『進化倫理学入門』を読む少し前に、自分は「カントの義務論は不完全ではないのか?」と疑問に思い始めていた。

数学でいえば「公理」のようなものが仮に「倫理」にあったと仮定しても、倫理的な命題「~べき」に帰結するにはそこにはもう一つの「~べき」が前提となってなければならない。

そして、そのもう一つの「~べき」でさえも、さらにもう一つの「~べき」が隠れて前提となっていて無限に後退する。

倫理学に正解がないのはこのトートロジーを解決できないからだと自分は考えていた。

   

ところが、実在論に依拠する本書は「事実ー価値」が分離不可能であって、反実在論者の鋭い分析に対してひとつひとつ丁寧に反論を展開していくのである。

読んでいて、なにかこう、自分が必死に自転車を漕いでいるときにスポーツカーであっという間に先に越されていく感覚を覚えた。

自分はいったい倫理についてどれほどのことを知っているのかと、やるせなさに囚われた。

   

ヒュームの法則が正しいかどうかではなく、ヒュームの法則が正しいと仮定してもなお反論できる材料が数多にあることは本書を読まなければ気が付けなかった。

とにかくあっけにとられた一日であった。

つづく

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