自由意志問題の名著である。
僕は本書のとある話に夢中になった。
アナバチはコオロギを仕留めると、巣の入口まで運ぶ。
そのあとコオロギを入口に置いたまま巣の内部を確認したらコオロギを巣のなかに入れるのだそうだ。
ここで人間が、アナバチが巣のなかにいる時にこっそりコオロギを数インチ動かす。
すると戻ってきたアナバチはコオロギを入口まで戻してまた巣のなかに入っていくのだそうだ。
驚くべきは、時にこれが40回も繰り返されるのだという。
つまりは、人間のような高度な生き物がいたずらをしているように、人間もまたもっと高度な原理にいたずらをされているのではないか、というお話になる。
ここで考えるべきは自由の定義だ。
何が自由でないのか。
自由とは何かを知っているつもりになることはこの問題を放棄するに等しい。
知っているつもりになって何も考えないことは悪が生まれる条件になることはハンナ・アーレントが指摘した。
つづく
公開日2022-03-09
【2024年現在の追記・補足】
本書を手に取って二年経ったが、最近になってまた読み直している。
読書日記1339で本書に触れたので、ここに読書日記1339の記録を残しておく。
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『進化倫理学入門』
今日はヒュームの法則をもう一段階深堀りした。
結論から書くと、本書によればヒュームの法則が「真」であれば、「~すべきである」という命題には、他の「~すべきである」という主張が前提として入っていなければならない、ということが分かった。
“もし真であるならば、「ヒュームの法則」は将来のあらゆる道徳の理論化に決定的な制約を課すだろう。道徳的に何をすべきかに関する主張を確立するために、あなたは少なくとも一つの、道徳的に何がなされるべきかに関する他の主張を前提しなければならない。そしてその主張を擁護するために、あなたは何が道徳的になされるべきかに関する別の主張を前提しなければならない。そしてこれが続く。以上のことは、道徳的理論化は(理論化が可能な程度においては)永遠に自律的であるーーすなわち、最終的には、その法則や結合が価値の領域にとどまる学問分野であるーーということを含意しているように思われる。” P192
なぜそうなるのか、忘れないうちに書き留めたい。
三段論法においては、前提(1と2)が真であるならば、結論(3)も真であるということを意味する。
1.すべての人間は死ぬ。
2.ベアトリスは人間である。
3.したがって、ベアトリスは死ぬ。
ポイントは、諸前提が結論を「必然的」にするということである。
言い換えると、諸前提が「真」でありながら結論が「偽」であるような可能性が「一切ない」ことが事実でなければならない。
1.この宝くじが当たる確率は1/50,000,000,000,000である。
2.この宝くじは偽物ではない。
3.この宝くじは、買ったところで当たらないだろう。
一般論としては3は十分妥当にみえるが、「必然=確実(100%)」とは言えないので、これは誤りであることが分かる。
(なぜならば、諸前提が結論を「必然的に」していないからである)
1.ジョーンズはベアトリスを殺す。
2.ベアトリスは死にたくなかった。
3.ジョーンズはベアトリスを殺すべきではなかった。
前提(1と2)が真であった場合、結論(3)が偽である場合を想像することは可能か?
可能である。
以下の場合を考慮してみる。
a.ジョーンズは、ベアトリスがジョーンズを殺そうとするのを防ごうとしている。
b.ベアトリスは戦場における敵兵であり、ベアトリスはジョーンズを脅かしている。
c.ジョーンズは州の死刑執行チームの一員としてベアトリスを、5人の庶民を殺害したかどで処刑しようとしている。
このようなケースが考えられ得る。
このケースは前提(1と2)が真であり、結論(3)が偽である。
前提 (1と2) が結論 (3) を必然にしないと論理が成立しないことが理解できた。
ここに「~である」から「~べき」を導くことができない謎が隠されている。
次は「~べき」で構成される命題を考える。
1.いかなる人も、けっして故意に無罪の人間を殺すべきではない。
2.ベアトリスは無罪の人間である。
3.したがって、いかなる人もベアトリスを殺すべきではない。
前提(1と2)が真であると過程する。
前提(1と2)が真でありながら、結論(3)が偽であるような場合が想像できるか?
この場合はできない。
前提(1と2)が結論(3)を必然的にすることは明らかである。
ここでなんとなく分かってきた。
「~べき」から「~べき」は導けるのである。
最後にもう一度。
1.ジョーンズは無罪のベアトリスを殺す。
2.無罪のベアトリスの死は、ベアトリスを気にかけるすべての人にとって害である。
3.したがって、ジョーンズはベアトリスを殺すべきではなかった。
前提(1と2)は結論(3)を必然的にするか?「無罪の人を殺すべきではない」という前提があるならば必然的にする。なければしない。
「~である」と「~べき」は水と油のような関係にある。
結論「~べき」に対しては、「必ず」他の「~べき」が前提として隠れている。
果たして、前提として他の「~べき」が「無い」場合において、前提(1と2)が「~である」で構成され、かつ結論(3)を必然的にするケースは存在するだろうか?
今日は例外を探してみようとしたが、見つからない。
おそらく見つからない。見つかった場合、ヒュームの法則は崩される。
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『いまだ人生を語らず』
書店に行けば新装版のパゾリーニ詩集がみすず書房から出ている。
立ち読みでパラパラとしか読んでいないが、非常に魅力的な内容であった。
四方田犬彦氏はパゾリーニ研究者でもある。
そんな四方田氏のエッセイを読みたくなった。
メモ
“繰り返し書いておこう。多く読む必要はないのだ。一万冊の書物をそれぞれ一度しか手に取ろうとしない人は不幸であると思う。なぜならいつも同じ、単一の書物を読んでいるにすぎないのだから。本を読むことの本当の面白さは、それをいくたびも繰り返し読むところこにある。時間をおいて、こちらの関心や目的がすっかり変わってしまった後に、かつて親しんだ書物を取り上げてみる。それはまったく異なった姿を見せることだろう。” P57-58
この言葉を忘れないでいたい。
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『自由の余地』
非常に考えさせられた。
なぜ人間には好奇心があるのか。
結論として、今日の段階では「自由への渇望」だと自分には思われた。
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・ホフスタッターが名付けた「アナバチ性」について
アナバチはコオロギを穴に運び、穴のなかが安全か確認しに行く。
問題がなければそのままコオロギを中に運ぶ。
ところが、アナバチが確認しに行っている瞬間、人間がコオロギを数インチ動かすと、アナバチはコオロギを入り口まで運び直し、また穴の確認に行くのだという。
それがひどいと40回も繰り返されるという。
なんという哀れなアナバチ。これをホフスタッターが「アナバチ性」と呼んだ。
“蜂の話にはもう一つの大事なテーマが隠れている。(・・・)つまり、めまぐるしくあれこれやっているのだが、それには主がいない!われわれが眺めている世界は、賢くデザインされ、そのあとで設計者に見捨てられたように見える。” P21
うなずける。
アナバチは明らかに非合理的に行動をしている。
コオロギが数インチ動かされたとなぜ疑問に思えないのか?気づかないのか?
しかし人間は「アナバチ性」からどれほど離れているだろうか?
ゴルフのパターで体をくねらせる行為は「ボディーイングリッシュ」と呼ばれる。
“科学がわれわれに示す恐れがあるのは、われわれのすべての努力が所詮ボディーイングリッシュにすぎないということだ。” P25
体をくねらせたところでパターの結果は変わらない。
人間はときに非合理的なことをする。
つまるところ、自由であるかどうかはアナバチの例を見て分かるように、合理的であるかどうかと言える。
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メモ
ウィトゲンシュタイン「哲学とはわれわれの言語という手段を介して、われわれの悟性をまどわしているものに挑む戦いである」
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「Need-to-Know」原則
ウミガメの「捕食者飽和戦略」によると、海岸で孵化した子供が食べられてしまうので、捕食者が食べきれないほど産めば、孵化した子供の「一部」は海へ逃げることができる。そうすれば子孫を残すことが可能となる。
ところが、それを子供が知るよしもない。
人間はどんな戦略によって「生かされている」だろうか?
“母なる自然は「Need-to-Know」原則に従っているが、われわれはそれとは正反対の原則を奉じている。われわれの理想は、すべてを知り尽くしていることであり、自分にかかわるすべての理由を把握できること、自分にかかわりをもつどんなことについても無知ではないこと、完全かつ完璧に情報を得ている自分自身の利害の守り手であることだ。これが、つねに理性の命じる通りに行動を選べるということの正体だ。” P40
自由意志問題の要は、「自分を動かしているものは何かが不明」であることに思われる。
ウミガメの子供は「とりあえず海へ行け」という本能によって動く。
その理由を子供は知らない。
海へ行くことは正しい。理にかなっている。
しかしその理由を知らないということは、「たまたま正しいことをした」に過ぎない。
正しいと知ったうえで「海へ行く」場合、それは「理性によって正しいことをした」と言える。
これを人間に当てはめる。
本能に従って行動するのと、理性によって正しいことの区別はあるのではないだろうか?
ただ、すべてを知り尽くすことは不可能だ。
それでも、「アナバチ性」からどれだけ遠ざかることができるか、と考え、限りなく理性的に行動することによって「アナバチ性」の蟻地獄から脱することでより「自由」になれるのではないだろうか?
非常に深い。
頭がつかれるが、本書はできれば最後まで読みきりたい。
つづく