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感想
本書の分析道具の中心となっているアノミー概念については、前回、前々回とまとめてきたので割愛して、読んだ感想や、この本を読んだあとに何をすべきか等を書いていきたい。その前に少しだけ本書の内容をまとめたい。
社会科学は「人間の作為次第では社会は変わる」と考える立場をとる。
哲学用語でいえば「非決定論」的な世界観である。「決定論」の場合、人間にできることは「社会は変えることができないので、ただ解釈することしかできない」となる。
世界が決定論に従っているかどうか、この議論についてはまだ決着がついていないので、いまはどちらの立場もまだ有用性は残っている、という前提で書いていきたい。
小室直樹は社会科学者であるので、社会の構造次第で物事は変わっていく見方をとっている。
戦後の日本は天皇が象徴となったことで「急性アノミー」になり、今日の政治腐敗にみられるような、無法地帯とまでは言えないにしても、無秩序になってきている。
小室直樹は「いまの日本社会を変えることは無理」とは言いつつも、この本を書く情熱を鑑みれば、わずかに希望は残っていると自分は解釈した。
そのために小室直樹は社会科学の思考法を身につけるべきだと述べていた。
小室直樹は終盤で、ひとつの例として経済学者と心理学者のコミュニケーションができていないことを嘆いていた。
前者は理論に傾き、後者は実践(=実験)に重きを置いている。
また、政治学についても「アリストテレス以降、ほとんど進歩していない」という説を引用し、科学的な方法論が政治学に欠如していることを述べていた。
方法論については今回精読せずにさらっとだけ読んだのであまり理解はできなかったが、各々の学問が科学的に成立しないとディスコミュニケーション(対話不能)になるという小室直樹の主張は理解できた。
オルテガ・イ・ガセットも同じことを言っていた。
専門家は専門のことにしか詳しくないので、専門家でさえも「大衆」と同じなのだ、という内容であった。
おそらくこの言葉は有名なのかもしれない。自分が立ち読みした限りでは『大衆の反逆』を要約している、ビジネスマン向けの本にも書かれていた。
ただ多読することに意味はないかもしれないが、物事を幅広く、かつ深く考えなければならないことは間違いないといえる。
小室直樹の教えに従って、今後自分はどのようなことを考えるべきか。
個人にできることは少ない、という陳腐な発言をここではしたくないので、やや誇張になるかもしれないが書いてみると、ソクラテス的に言えば、やはり個人個人が「正しい仕方で」物事を考え、それぞれの持ち場で発信していかなければならない。
政治に対する無力感でうんざりする世の中ではあるが、だからといって個人の好きなように、個人の世界のなかで楽しく最後まで生きていく、という生き方を自分は選択できない。
物価上昇、ヘイトの蔓延、誹謗中傷の洪水。
これが「急性アノミー」のなれの果てだとすれば、再度小室直樹の本を読みなおし、自分の生き方を反省すべきだと自分は思った。
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新・読書日記21
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日記
今日は数冊読んで最後に『考える日々 全編』を読んだ。
ひとまず印象に残ったメモをここに引用したい。
“(・・・)たとえば、小説の中の人物、あれを生きていると言うべきだろうか、死んでいると言うべきだろうか、どっちなのだろうか。彼らの人生を読んでいる時間とは、では、どのような存在の時間なのだろうか。小説の人生など言語による虚構である、それらは現実の人生ではないと言うなら、われわれの人生そのものが、そうなのではないだろうか。なぜなら、われわれは、言語によって虚構することによってのみ、現実を生きているからである。” P322-323
池田晶子は、解剖学者で、毎日のように死体向き合っている養老孟司の「生きているほうが異常」という言葉に触れて、現実性について語りかけた。
「生存とは存在の一形式である」
まぎれもなく、間接的に現代のヒューマニズムへの批判だと自分は感じた。
生が無条件に肯定されることにさえも、池田晶子は否定的にみているのかもしれないが、自分はそこまでには至らない。
小室直樹やマルクスの影響だろうか、自分は社会という存在をまずは考えてみたいのである。
池田晶子がなぜ思索にとりつかれるのか、なぜ現代社会にあらゆる時事的な物事に一切の関心を見だせないのか。
池田晶子はそういうことを「客観的」に分析してはいない。
そういう意味では、本当に魂の人間だということなのだろうけれども、今日の自分は自分は「否定性」よりも「肯定性」についてもっと考えたいと感じた。
それはいうまでもなく、障がい者福祉の仕事に従事しているからだと思う。
つづく