ラボ読書梟 (旧 はてなブログ大学文学部)

新・読書日記22

中島啓勝『ておくれの現代社会論: 〇〇と▢▢ロジー』ミネルヴァ書房 (2024)
宮台真司『崩壊を加速させよ』blueprint (2021)

■株式会社ミネルヴァ書房

公式HP:https://www.minervashobo.co.jp/

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■株式会社blueprint

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公式X(旧 Twitter):不明

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日記

『ておくれの現代社会論: 〇〇と▢▢ロジー』

いつの時代も「近頃の若い者は~」と言われる。

いつの時代も「日本が危ない」と言われる。

あまりに「ヤバい」と言われ続け、もはや感覚が麻痺してしまい、「ヤバい」と言われ続けるのが「普通」「平常」になってしまった。この雰囲気に敢えて「NO」を突き付け、「危ない」と考え、問い続ける姿勢は大事にしようという主旨の本であり、個人的に気になったので読むことにした。

 

小室直樹の本を読む前に自分は宮台真司教授の本をよく読んでいた。

真面目に日本について語る先生かと思いきや、ナンパの達人であったりもする。ちょっと変わったところが個人的に好きであった。

『14歳からの社会学』を自分は二回読み直した。

昔のなあなあで済んでいた「なんとなくでなんとかなる日本」はグローバリズムで変わり果て、規則、規制、規制緩和、また規制、コンプラと、窮屈で不幸な国になってしまっているように自分は感じている。(行為功利主義から規則功利主義)

その原因のひとつは「他者」の定義が「名前の知っているご近所さん」から「どこの誰かも知らない人」に変わってしまったことによる。

  

小室直樹は『危機の構造』で日本の行き詰まりの根本原因を論じた。小室直樹は、日本人には社会科学の思考が足りないと語っていた。それは「作為次第で社会は変わる」と考える思考法であった。

リベラル、リバタリアン、コミュニタリアン、フェミニスト、アクティビストらが社会を変えようと日々戦っている。

しかし、むしろ状況は悪化しているようにさえ思える。

自分は自分なりに考えた結果、アクセル・ホネットの承認論を中心に、地道に勉強することにした。

  

・・・

  

断片的な考察でありながらも、本書は示唆的な意見が豊富であったので、気になったところはメモを残した。

「サイコパスと成長主義」の章では、良心がなく、他人を平気で蹴散らせるほうがむしろ社会の強者になりやすい、といったことが書かれていた。これはある意味真理で、『嫌われない勇気』がベストセラーになったように、人はどこかのある部分で良心を不要で厄介なものと考えているのかもしれない。

  

“(・・・)ニーチェ風に説明するならば、サイコパス傾向の弱い人々とはこの社会における弱者であり、価値破壊的であると同時に価値創造的でもある強者サイコパスのことを、我々は「良心」という名の奴隷根性を振りかざして何とか引きずり降ろそうとしているようにも見える。” P31

     

また、福祉国家が弱者に「うしろめたさ」を与えることで、逆説的に「不幸な国」にしているのではないか、という指摘も考えさせられた。

“このように、福祉は幸せを意するにもかかわらず、むしろ不幸ばかりを連想させてしまう言葉として用いられることがどうしても多いという、それこそ「不幸」な境遇にあるのだ。” P76

  

つい最近も某有名大企業の誰かが「〇〇億納税してから物を言え」ということを言っていたが、福祉国家は独立精神の強い人間ほど忌み嫌われるものとなっている。

『実力も運のうち』を読めば、それがある程度暴論であることが分かるのであるが、想像力の欠如、認知の歪みはお互い対立を生み、どこか息苦しさを催させているように思う。

   

・・・

『崩壊を加速させよ』

小室直樹『危機の構造』を読んだ限り、小室直樹の論理は社会科学の方法論で構成されていると自分は解釈している。

「社会は作為次第で変わる、可変な存在である」という発想は、宮台真司的には「社会構築主義」的で、人間の社会の「外」へのまなざしが欠けている可能性があるのではないか、と自分には思われた。

再度、宮台氏の人類学の主流の変化に関する記述を読んだ。

“ニコラス・ルーマンの社会システム論や、影響を与えたヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論に見られるように、僕らが社会を営む以上ーー社会と呼ばれる言語ゲームを営む以上ーー社会への〈閉ざされ〉が当然だとの感覚が、20世紀半ば以降支配的になる(=ポストモダン)。その劣化版が(社会学的)構築主義と呼ばれるが、劣化し過ぎていたので反発が生じた。存在論的転回が記すのは、人間界(社会)の外に人間にはどうにもできない動き(世界)があるとする共通感覚だ。カントの「物自体」とは全く違い、スペルベルで言えば表象(=記号)の、ラトゥールで言えばモノの、人間の営みをシャーレの如き培地とした増殖や変異があり、そのダイナミズムが人間を方向づけ、翻弄するのだ、というイメージになる。” P27-28

  

人間は作為次第で変わる、というその発想には、人間社会は制御可能だという前提があるように見える。

しかし「社会」の外にはさらに広い「世界」がある。

小室直樹がまだ生きていたらどのように主張するだろうか。

人新世という言葉はただの言葉遊びに過ぎないと言うだろうか。

実際そうかもしれない。

  

世界をなんとかするには結局のところ社会を変えなければならない。

人類学といえばグレーバーが人気ではあるが、個人的になぜか意欲が湧かない。

湧いたときには必要なときだろうから、その時は必要に応じて読んでいきたい。

  

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