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新・読書日記25

デュルケーム/デュルケーム学派研究会『社会学の基本 デュルケームの論点』学文社
デラルド・ウィン・スター『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』明石書店(2020)

■株式会社学文社

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日記

『社会学の基本 デュルケームの論点』

小室直樹の本の影響で、デュルケームに関する本を読みたくなった。

社会学と社会科学の違いがよく分からないが、あまり気にせず、とりあえず資本主義とエートスについて考える際に大いに参考になるものだということは理解できた。

 

読書日記1250あたりを書いていたころ、自由意志について、様々な文献にあたりながら考えていた。

自由意志はないと想定することに社会的な意義はないと自分は踏んでいた。

だがそれは逆説的に自分を苦しめるものとなった。

 

人間の営みを大局的に見れば自由意志がないようにしか見えないのである。

たまたま生まれる発明やイノベーションというものは、生物学でいう「突然変異」に似たようなもので、不確実性のもとで偶然生まれる産物に過ぎないという考えが頭の片隅に残っていた。

教育格差について一時、馬鹿みたいに真面目に考えていた時期があった。

格差の再生産が不可避であれば、「努力次第でなんとかなる」という言葉はもはや中傷的メッセージともなり得る。

 

世の中に溢れる希望に満ちた言葉が全て欺瞞に思えてしまうほどに自分の心は荒んでいた。

今もあまり平和ではないかもしれない。

ギリギリのところで踏ん張れるのは、苦悩から生まれるものは苦悩という負債を背負う以上の価値を生み出せる可能性があるという、根拠のない信仰によるものであった。

 

・・・

 

池田晶子は「国家というものは存在しない」ということを語っていた。

たしかアイデンティティというものを批判する文脈で出た言葉であったと記憶している。

こういう考えは、社会科学的には「社会唯名論」とされる。

 

一方で、デュルケームは「社会的事実」という概念を作った。

物質として実在するものではないが、「実在」するかのように、物として機能する「貨幣システム」というものが「社会的事実」の例として挙げられた。

この考えを「社会実在論」という。

[社会唯名論⇔社会実在論]と表現することができる。

本書によれば、どちらが正しいのかは、現代においても決着がついていないのだという。

ただ、小室直樹はデュルケームに依拠していたので、後者の「社会実在論」のほうが有用性のある理論といえる。

 

今の自分の考えでは、池田晶子の考えはやや極端と言える。

なぜならば、彼女も買い物をする以上、社会のルールに沿っていたわけであり、その「外的拘束力」に影響を受けている以上、社会科学(小室直樹)の想定する前提「作為次第で社会は変わる(少々意訳すれば、制度によって社会を変えることができる)」の条件を満たしているはずだからである。

 

さらに付け加えると、「社会は存在しない」と考える場合、すべての行為は個人に還元できると言えなければならない。

買い物の行為は、個人の「外」を想定しない限り、還元は不可能と言える。

だから社会唯名論は根拠が薄いと自分には思われた。

ただ、現状では、自分は社会唯名論側の論理を追えていないので、この考えが逆転する余地は大いにある。

 

・・・

 

なぜ自分が自由意志問題に苦しめられたかというと、この「外的拘束力」の影響があまりに強く、個人の意志を突き詰めると、その本質はほとんど社会に回収されていくのではないかと強く思われたからであった(大局的には、個人の行動は自由意志がないかのように振舞っている)。

自分は無限に細分化されていく分析哲学の営みにまいってしまい、何か別のツールを求めた。

その時にちょうど小室直樹の本を再読し、ヒントを探しもとめたのであった。

・・・

『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』

本書には先ほどの「社会的事実」がどれほど人間の無意識に「埋め込まれている」のかが網羅されている。

小室直樹はこう言ったそうだ。

「合理的であろうとする動機が、合理的であるはずがない」

自分はこれをパラフレーズし、

「理性的であろうとする動機が、理性的であるはずがない」

とした。

 

つまり、以下のような問いかけを自分は想起したのである。

・非合理は常に合理を超えるものである

・ロゴスはパトスに飼いならされるほかない

 

いろいろと思索するうちに、資本主義批判の延長線上で、無意識の話の方向まで展開させてしまった。

しかし「遠回りは近道」という、逆説的な真理を自分は信じているので、このまま進んでいきたい。

 

今日は資本主義というシステムを動かすあらゆるエネルギーのなかに、「無意識のエネルギー」というものが存在するのではないかと考えさせられた。

言い変えると「意志なき機械」、つまり機械論的な世界観がそこに立ちはだかるのであった。

引用する。

“研究者たちは、人種、ジェンダー、性的指向に関して昔から続く偏見から私たちが自由であることは、ほとんど不可能だと主張している。” P60

 

まさにカール・マルクスの命題「社会が意識を規定する」例だ。

自分はさきほど、格差の再生産に触れた時「努力次第で人生はなんとかなる」といった類は、マイノリティを傷つけるものだと書いた。

それに関して本書では以下のようにかかれている。

“能力主義信仰は、人種やジェンダー、性的指向は人生の成功になんら影響しないという主張するテーマである。(・・・)「十分に一生懸命やれば、誰でも成功できる」、そして「アファーマティブアクションは逆レイシズムだ」。これらすべての発言は、レイシズムや性差別主義、異性愛主義がグループや個人の成功にとって大して重要ではないという考えを暗に含んでいる可能性がある。” P81

  

自分が、自由意志があるかどうか疑わしいのは、無意識に規範が「埋め込まれている」ことを示す例が数多にあるからである。

引用する。

“黒人に対する差別がいまだどの程度存在しているかという質問に対し、10%の白人が「たくさん」と答えているのに対し、57%の黒人が「たくさん」と答えている。さらにまずいのは、現存する人種間の緊張がどの程度黒人によって作り出されているかという質問に対する回答だ。3分の1以上の白人がその原因を黒人に帰したのに対し、自分たちが問題だと答えた黒人はたったの3%だった(Babbington, 2008)。” P92

 

絶望は止まらないが、この状況への処方箋がないことはない。

想像力を鍛えること、自分で自分のことを調べること。他者との深いコミュニケーションをすること。

少しずつ、前へ進みたい。

つづく

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